イギリス海峡の海底で、封のされたままのビール瓶が見つかりました。ラベルには「Guinness Extra Stout, London」。1864年に沈んだ帆船の積み荷で、瓶はおよそ162年ものです。見つけたダイバーたちは、いま「ジュラシック・ビール」と名づけた計画を進めています。中身を分析して、当時の味を現代によみがえらせようというのです。
ドーバー沖の沈没船で見つかった未開封の瓶
舞台は、イングランド南東部ドーバーの沖およそ5km(約3マイル)の海底です。ここにミンドラ号という帆船(three-masted barque=三本マストの帆船)の残骸が沈んでいます。ロンドンを出港してカナダのバンクーバーへ向かう途中の1864年11月27日、ケルソニーズ号という船と衝突して沈みました。出港はその一週間前の11月20日。幸い、乗員に死者は出ていません。
2025年の夏、ベルギーの水中写真家でダイバーのステファン・パニス氏が、仲間のエディ・ハジー氏とこの残骸に潜りました。海底で拾い上げたのは、封のされたままのガラス瓶。海面に上げて汚れをすすいだところ、ガラスに刻まれた文字が読めました——ギネスの名前です。パニス氏自身、ギネスの歴史がそこまでさかのぼるとは知らなかったといいます。
瓶は一本だけではありませんでした。近くには木箱に収まったままの瓶が並んでいて、これまでに20本ほどが確認されています。パニス氏は、箱の大きさから24本入りの一ケース、しかも複数のケースがある可能性を見ています。

中身が162年残っていた理由
この沈没船自体は以前から知られていて、パニス氏たちも10年以上前から潜っていました。それでもビールの木箱が見つかったのは今回が初めてです。理由は、海底の砂にあります。イギリス海峡は潮の流れが強く、砂が動くたびに沈没船の一部が姿を現したり、また埋まったりします。ビールの木箱も、酢漬けの野菜など他の積み荷とともに、長いあいだ砂の下に隠れていたとみられます。
もうひとつ、瓶の詰められ方が効いていました。木箱の中で、瓶は逆さまに並べられていたのです。調査を進めるポーランド出身のテクニカルダイバーで歴史研究者のパヴェウ・トルシンスキ氏は、これが深海の水圧のもとで自然の水封になり、海水の侵入を防いだと説明しています。栓の内側がつねに中身の液体に浸っていれば、コルクは乾いて縮まず、外の海水も入りにくくなります。
海底の環境も味方しました。水温は4度前後、水圧は一定で高く、光はまったく届きません。ビールの保存という点では、これ以上ないほど条件がそろっていたことになります。

ラベルに残る「ロンドン」の来歴
ギネスの醸造所はダブリンにあります。それなのに、なぜ瓶に「London」と入っているのか。ここは19世紀の酒の売られ方を知ると腑に落ちます。
当時のギネスは、自社で瓶詰めをしていませんでした。樽(たる)のまま瓶詰め業者やパブに卸し、受け取った側がそれぞれ自分の瓶に詰めて、自分のラベルを貼って売っていたのです。そのため同じギネスでも、瓶にはさまざまな業者の名前が並びました。中身をごまかす業者も現れたので、ギネスは1862年に自社の商標ラベルを導入し、契約した業者にだけ配るようになります。ミンドラ号が沈む、わずか2年前のことでした。
つまりこの瓶の「London」は、ロンドンで瓶詰めされた輸出向けのギネスだと読めます。トルシンスキ氏も、この積み荷はロンドンへ輸出されたものだろうとみています。ダブリンで醸造され、ロンドンで瓶に詰められ、木箱に納められて北米へ運ばれる途中だった——瓶一本から、当時の流通のかたちが透けて見えるわけです。
「ジュラシック・ビール」計画の中身
パニス氏とトルシンスキ氏は、この瓶をどうするかを考えました。単純に開けて飲んでみる、という道もあります。ただ二人が力を入れているのは、もうひとつのほうです。中の酵母を調べて、1864年当時の味を再現する。これを「ジュラシック・ビール」計画と呼んでいます。
似た試みには前例があります。1797年にタスマニア沖で沈んだ帆船シドニー・コーヴ号からは、1990年代に未開封のビール瓶が26本引き揚げられました。2016年、オーストラリアのクイーン・ヴィクトリア博物館・美術館を中心とする国際チームが、その中身から生きた酵母を分離することに成功し、当時のレシピでビールを醸造しています。220年ぶりの味は、軽くてさわやかだったと報告されました。
今回も同じ道筋をたどるのだろう——と思うと、少し違います。分析を担当するのは、ベルギーのルーヴェン・カトリック大学(KUルーヴェン)で微生物学と遺伝学を教えるケヴィン・フェルストレペン氏です。同氏は、1864年の瓶から生きた酵母を回収できる見込みは高くないと、はっきり述べています。試みはするけれど、期待はしていない、という言い方です。
ではどうするか。フェルストレペン氏が本命に置いているのは、酵母のDNAを読むほうです。配列が読めれば、その酵母が酵母の系統樹のどこに位置するかが分かる。位置が分かれば、いま生きている酵母の中から、その株にいちばん近い「きょうだい」を探し出せる。あとはその現代の酵母を使って、当時のレシピで醸す。つまり「ジュラシック・ビール」は、160年前の酵母をよみがえらせる計画ではなく、160年前の酵母の親戚を現代から探し当てる計画だということになります。
トルシンスキ氏は、これが実現すれば液体のタイムトラベルが可能になる、と表現しています。ただし、その旅の乗り物になるのは当時の酵母そのものではなく、その血筋を引く現代の酵母です。
試飲の可否をめぐる見極め
もう一方の「開けて飲む」ほうも、まだ実行されていません。ここは押さえておきたいところです。162年前のビールを飲んだ、という段階にはまったく達していません。
判断の分かれ目は、コルクを通って海水が入っていないかどうかです。海水が入っていれば、それとともに有害な細菌が入り込んでいる可能性がある。逆に、まったく入っていないと確認できれば、口にしても差し支えないかもしれない——という順序です。パニス氏は自分ではギネスの熱心なファンではないと認めつつ、安全と分かればもちろん味見はする、と話しています。トルシンスキ氏にいたっては、真っ先に並ぶつもりのようです。
ちなみにトルシンスキ氏は、2024年にスウェーデン沖のバルト海で19世紀の沈没船を見つけ、100本を超えるシャンパンを確認したチームの一人でもあります。古い酒を海底から引き上げること自体は、この人たちにとって初めてではありません。
いまパニス氏は、回収した瓶を自宅のガレージで保管しています。水に沈めた状態で、光を遮った暗いところに置く。162年にわたって中身を守ってきた海底の条件を、そのまま再現しているわけです。
手続きと、まだ確定していない部分
この話を読むときに、いくつか頭に置いておきたい点があります。
まず、船の名前が資料によって揺れています。ダイバーたちは「ミンドラ(Mindora)」と呼んでいますが、船舶記録を管理するロイズ・レジスター財団から提供された検査報告書の船名は「ミンドロ(Mindoro)」でした。同財団のアーキビスト、ザック・シーファースティーン氏によれば、19世紀の記録では船名の表記ゆれは珍しくないとのことです。報告書は1864年9月3日付で、検査官が最初にこの船を訪れたのは1863年11月とされています。同一の船である可能性が高い、という段階です。
あわせて、ロイズ・レジスター財団は、この沈没船の場所がミンドラ号であると公式には確認していません。ダイバーたちの潜水が財団と連携して行われたものではないためです。
沈没船から物を引き揚げることについては、イギリスに決まった手続きがあります。1995年商船法(Merchant Shipping Act 1995)のもと、英国領海内で回収した沈没船由来の品は、古さや大きさや価値にかかわらず、28日以内に「レシーバー・オブ・レック(Receiver of Wreck)」という担当官に届け出る義務があります。届け出れば救助報酬を受け取れる場合もありますが、怠れば罰金の対象になります。今回の瓶についてこの届け出がどうなっているかは、報じられた範囲では確認できませんでした。
そして、酵母の解析はこれからです。DNAがどこまで読めるのか、系統樹上の位置が特定できるのか、近縁の株が見つかるのか。どれも、まだ結果の出ていない話です。今月中にはさらに何本かを引き揚げる計画で、うち2本をダブリンのギネス・アーカイブへ、2本をフェルストレペン氏の研究室へ送るとしています。ギネスのブランドを所有するディアジオ社の広報担当者は、こうした発見は自分たちの過去をのぞく窓になる、とコメントしています。
1864年11月、ロンドンの埠頭で木箱に詰められた一本が、いま実験台の上にあります。中身が飲めるものかどうかも、当時の味が本当に取り戻せるのかも、答えが出るのはこれからです。
出典
Smithsonian Magazine(2026年8月12日、Ellen Wexler):Shipwreck Divers Discovered a 162-Year-Old Bottle of Guinness Brewed During the Reign of Queen Victoria—and They Want to Take a Swig
The Irish Times(2026年8月5日、Jack Brady):Guinness found on 162-year-old shipwreck inspires divers with ‘Project Jurassic Beer’
英国政府(GOV.UK)による沈没船・救助に関する法の解説:Wreck and salvage law
シドニー・コーヴ号の酵母からビールを醸造した先例(Smithsonian Magazine、2016年):Australian Researchers Brew Beer With Yeast Believed to Be from a 220-Year-Old Shipwreck


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