猫が電柱や壁におしっこをかける「マーキング」。あれは縄張りの主張だと昔から言われてきましたが、では猫のほうは、他の猫が残したにおいから何を読み取っているのでしょうか。その答えの一端を、岩手大学を中心とする国際共同研究グループが突き止めました。手がかりになったのは、猫を飼っている人なら一度は見たことがあるはずの、あの独特な表情です。研究成果は2026年8月20日(日本時間)、アメリカの科学誌Current Biologyの電子版に掲載されました。
口を半開きにする独特の表情
猫が何かのにおいを嗅いだあと、口を半開きにして上唇を持ち上げ、ぼんやり固まったような顔をすることがあります。「フレーメン反応」と呼ばれる行動で、猫だけでなくウマやウシ、ゾウなどでも見られます。においの中の特定の成分を、鼻の奥にある「鋤鼻器(じょびき)」という専用の嗅覚器官に取り込むための動きだと考えられています。
岩手大学農学部の宮崎雅雄教授(分子生体機能学)らのチームは、このフレーメン反応に注目しました。実験で猫に尿のにおいを嗅がせると、自分の尿より、知らない猫の尿のほうがフレーメン反応をよく起こします。そして同じ尿を繰り返し嗅がせると、反応は次第に減っていきました。つまりフレーメン反応は、「知らないにおいかどうか」で強さが変わる行動だったのです。チームはこれを手がかりに、猫が尿の何に反応しているのかを絞り込んでいきました。

においによる個体識別の課題
動物が仲間を見分けるとき、ふつうは見た目や声、においなどを組み合わせて使います。その中でも「においだけで個体を特定する」のは、実はかなり難しい芸当です。においのもとになる成分の多くは時間とともに蒸発して、組成がどんどん変わってしまうからです。残された尿のにおいが刻々と変わるなら、「これは誰の尿か」という情報も一緒に崩れていくはずです。
それでも、においだけで個体を伝える仕組みを持つ動物はいます。よく知られているのがマウスで、尿に含まれるタンパク質の組み合わせが個体ごとに異なり、名前の代わりになっています。一部の昆虫も、体表の炭化水素のパターンで同じ巣の仲間かどうかを判別します。ただ、マウス以外の哺乳類がどうやって「時間がたっても崩れない個体情報」をにおいに残しているのかは、よく分かっていませんでした。猫の尿にそういう成分があるのかどうかも、これまで謎のままでした。
一匹ごとに違う脂肪酸の組み合わせ
チームは高速液体クロマトグラフィーという手法で猫の尿を成分ごとに分け、それぞれを猫に嗅がせて、どの部分がフレーメン反応を引き起こすのかを調べました。浮かび上がってきたのは、「分岐鎖脂肪酸」と呼ばれる特殊な脂肪酸のグループです。脂肪酸は体の脂肪を作っている分子で、ふつうは炭素がまっすぐ鎖状につながっていますが、分岐鎖脂肪酸はその鎖が枝分かれした、少し変わった構造をしています。チームは猫の尿から、この分岐鎖脂肪酸を13種類発見しました。
そして肝心なのはここからです。13種類の分岐鎖脂肪酸がどんな種類と比率で含まれているかを調べると、その組み合わせは一匹ごとに違っていました。しかも同じ猫なら、採尿する日が違っても組み合わせは比較的安定していて、尿を室温で24時間置いてもその特徴はよく残っていました。分岐鎖脂肪酸は蒸発がゆっくりな「半揮発性」の物質なので、他のにおい成分が飛んでしまったあとも残り続けるのです。つまり猫の尿には、一匹ずつ内容の違う、時間がたっても消えにくい「においの名刺」が入っていた——それがこの研究の核心です。
猫が本当にこの名刺を読めているのかも、行動試験で確かめられています。尿に含まれる他の脂質成分を同じ条件にそろえ、分岐鎖脂肪酸だけを別の猫のものに入れ替えて嗅がせると、一度そのにおいに慣れていた猫が、また長く嗅ぐようになりました。分岐鎖脂肪酸の組み合わせの違いだけを、猫はちゃんと嗅ぎ分けていたわけです。

腎臓で見つかった名刺の貯蔵庫
では、その名刺の中身はどこで用意されているのでしょうか。体内を調べると、分岐鎖脂肪酸は腎臓で検出され、腎臓の外側の部分(腎皮質)の細胞内にある「脂肪滴」——脂質の小さなしずく——に蓄えられていました。
実は、猫の腎臓にたくさんの脂肪滴があること自体は、100年以上前から知られていました。ただ、それが何のためにあるのかは、ずっと分からないままだったのです。今回の結果から、この脂肪滴が分岐鎖脂肪酸の貯蔵庫として働き、個体特有の組み合わせを安定して尿に送り出している可能性が浮かび上がりました。研究チームは、この貯蔵庫があるおかげで、食事や体調が変わっても名刺の中身が崩れにくいのではないかと考えています。においという移ろいやすいものに、安定した個体情報を載せるための仕掛けが、腎臓に隠れていたのかもしれません。
大型ネコ科との共通点と今後の応用
この仕組みは、飼い猫だけのものではなさそうです。ライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、オオヤマネコ、そして日本のイリオモテヤマネコでも、関連する尿成分や腎臓の脂肪滴が確認されました。一方で、その組成や脂肪滴の量は種ごとに違っていて、ネコ科の進化の中でこの「名刺」の仕組みが多様化してきた可能性があるといいます。
応用の出口も見えています。ひとつは、分岐鎖脂肪酸を標的にした猫の尿臭対策。もうひとつは、尿から個体を特定できる性質を生かした、希少なネコ科動物の追跡です。捕まえなくても、残された尿だけで「どの個体か」が分かれば、野生動物の調査はぐっとやりやすくなります。
そして飼い主にとって気になるのは、腎臓との関係でしょう。猫は慢性腎臓病になりやすい動物として知られています。宮崎教授は、この脂肪滴がどうやって作られ、維持され、尿へ送り出されているのかを解明したうえで、その過程の乱れが猫の慢性腎臓病に関わっていないかを調べたいと述べています。ただし、これはあくまでこれからの研究テーマです。今回の研究で腎臓病の原因が分かったわけではありませんし、尿のにおいで病気が分かるようになった、という話でもありません。
解釈上の留意点
研究チーム自身、分岐鎖脂肪酸を「においの名刺」の有力な候補と位置づけており、断定はしていません。腎臓の脂肪滴が貯蔵庫として働いているという説明も、現時点では可能性として示されている段階です。また、脂肪滴のおかげで食事や体調の変化に左右されにくい、という部分も、これから検証されていく仮説です。とはいえ、「時間とともに変わっていくにおいが、どうやって安定した個体情報を伝えるのか」という問いに、成分と体の仕組みをつなげて答えを示した点で、面白い一歩と言えそうです。猫があの独特な顔でにおいを嗅いでいるとき、そこでは一枚の名刺が読まれているのかもしれません。
出典
研究の詳細は、以下で確認できます。
岩手大学 プレスリリース「ネコの”あの顔”から見つかった「においの名刺」―尿の個体識別を支える特殊な脂肪酸と腎臓の貯蔵庫―」


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