アイルランド南西部、ディングル半島の先端近くにフェリターズ・コーブという小さな入り江がある。1983年から1995年にかけてここで発掘調査が行われ、数点の骨のかけらが見つかった。放射性炭素年代測定にかけると、一部は紀元前4450〜4270年、いまから6500年ほど前のものだった。
この骨は「ケリーの牛(Kerry Cow)」と呼ばれ、以来30年以上にわたって、アイルランドとブリテン諸島で最も古い家畜の痕跡として引用されつづけてきた。ところが、ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリン(UCD)の研究チームがこの骨を最新の手法で調べ直したところ、これまでの判定とは違う答えが出た。報告は2026年8月、英国の先史学会(Prehistoric Society)が出している会報『PAST』の第113号に掲載されている。

「ケリーの牛」が担ってきた役割
なぜ骨のかけら数点が、これほど長く議論の中心に居座ってきたのか。話の筋を追うには、まず時代の区切りを押さえておく必要がある。
中石器時代というのは、氷期が終わったあと、人びとがまだ狩りと漁と採集で暮らしていた時代を指す。アイルランドではおよそ紀元前8000年から4000年までがこれにあたる。続く新石器時代になると、作物を育て、家畜を飼う暮らしが広がる。ヨーロッパ大陸ではこの切り替わりが先に起き、農耕は東から西へ、じわじわと伝わっていった。
牛は野生のアイルランドにはいない動物である。だから中石器時代の遺跡から家畜の牛の骨が出てきたとなれば、意味は一つしかない。誰かが海を越えて持ち込んだ、ということだ。フェリターズ・コーブの骨は、まさにその一点で特別だった。狩猟採集民が暮らしていた場所から、大陸の農耕民に由来するはずの動物が出た。つまり紀元前4000年より前に、アイルランドの人びとはすでに海の向こうの農耕社会と接触していた——この読み方が、30年ものあいだ教科書的に引かれてきた。
ただ、この解釈はもともと居心地が悪かった。アイルランドで農耕が本格的に始まるのは紀元前4000年ごろとされていて、その筋書きと「ケリーの牛」はうまくかみ合わない。当時の説明の枠組みに合わない出土品が一点だけ残り、そこを起点に「接触があったはずだ」という議論が積み上がっていった、という格好だった。
骨片の判定という難しさ
骨から動物の種類を見分ける作業は、形が残っていればさほど難しくない。頭骨や関節のかたちには種ごとの癖が出るからだ。だが、遺跡から出てくるのはたいてい割れて欠けたかけらで、判断の手がかりになる部分が残っていないことのほうが多い。
フェリターズ・コーブの骨も、そうしたかけらだった。今回の研究者たちは、もとの種の判定について「あいまいで、暫定的なものだったことがはっきりしてきた」と書いている。これは1990年代の研究者を責める話ではない。当時は、かけらから種を確定させる手段そのものが存在しなかった。判定を保留したまま、いちばんありそうな答えを置いておくしかなかったのである。
状況を変えたのは、骨の見た目ではなく中身を読む技術だった。
骨のタンパク質による種の再判定
UCDのマーティン・ムシュロン博士が率いるチームは、UCCに保管されていたフェリターズ・コーブの資料を、フランス国立科学研究センター(CNRS)のリール研究室へ送った。使ったのはZooMS(ズームス)と呼ばれる手法で、日本語にすると「質量分析による動物考古学」になる。
仕組みはこうだ。骨にはコラーゲンというタンパク質が含まれている。骨や皮膚の芯になっている、あの成分である。コラーゲンは年月が経ってもかなりしぶとく骨の中に残り、しかもそのつくりは動物の種類ごとにわずかに違う。骨をごく少量だけ削り、そこに残ったコラーゲンを細かく切り分けて質量分析装置にかけると、断片の重さの並びが得られる。この並びを既知の動物のものと照合すれば、かけら一つからでも種が分かる。形が失われていても効く、というのがこの手法の強みだ。
報道で伝わっている内訳では、送られた8点のうち6点で種が判明した。2点はイノシシ類、2点はヒト、そして残る2点はクマだった。
牛は、一点も出なかった。
イノシシもクマも、アイルランドにもともといた野生動物である。誰かが海を越えて連れてきた家畜ではなく、島の森にふつうにいた獣だった。つまり「持ち込まれたはずの動物」という前提そのものが、成り立たなくなった。ムシュロン博士らは会報の中で、現時点では紀元前4000年より前にアイルランドと近隣の新石器時代社会とのあいだに接触があったことを示す証拠は存在しない、と書いている。

証拠の消失をめぐる解釈上の注意
ここで一つ、区別しておきたいことがある。今回分かったのは「接触はなかった」ではない。「接触があったと言える根拠が、いまは手元にない」である。
この二つは似ているようで別物だ。証拠が消えたからといって、出来事そのものが否定されたわけではない。海を渡った人や物が実際にあった可能性は残るし、それを示す別の資料が今後どこかの遺跡から出てくるかもしれない。ただ、これまで拠りどころにされてきた一点が外れたので、いまのところ話を組み立てる材料がない、ということになる。
とはいえ、影響は小さくない。アイルランドとブリテン諸島で最も古い家畜の証拠がなくなるということは、この地域で狩猟採集の暮らしから農耕の暮らしへどう移っていったのか、その筋書きを組み直す必要が出てくるということでもある。共同研究者のベンジャミン・ギアリー博士も、この結果は農耕の最初期の証拠についての理解を変えるものだと述べている。
牛川人骨をめぐる国内の再検討
古い出土品を新しい技術で見直したら答えが変わった、という出来事は、日本でも起きている。しかも、行き着いた先が同じくクマだった例がある。
1957年と1959年、愛知県豊橋市牛川町の石灰岩の採掘場で、人の上腕骨のかけらと大腿骨の骨頭とみられる化石が見つかった。鑑定にあたった東京大学の鈴木尚らは、これを更新世にさかのぼる化石人骨と報告した。「牛川人」と名づけられたこの骨は、長らく日本最古の化石人骨として知られ、発見地には石碑まで立てられている。
2024年12月、東京大学総合研究博物館の諏訪元特任教授と新潟医療福祉大学の佐宗亜衣子助教らの研究グループが、この化石をクマの骨と比較する解析結果を発表した。ヒグマ11個体とツキノワグマ13個体の骨を、目視、ノギスによる計測、実体顕微鏡、さらにCT撮影による断面と三次元モデルで突き合わせている。結論は、上腕骨とされてきたかけらはクマの橈骨(とうこつ=前腕の骨)の一部であり、大腿骨頭のほうもクマのものだ、というものだった。年代と当時の動物相から見て、ヒグマである可能性が高いとしている。論文は日本人類学会の機関誌『Anthropological Science(Japanese Series)』に載った。
この結果、南西諸島から出たものを除くと、日本の旧石器時代に属するとされるヒトの化石は、静岡県の浜北人骨だけになった。それでも研究グループは、牛川人骨の発見がその後の日本の古人類研究を押し進める土台になったという学史上の意味は変わらない、と書き添えている。60年以上前の判定を否定しながら、当時の仕事の値打ちは残す。今回のアイルランドの報告に流れているのも、同じ姿勢である。
今後の分析と報告の位置づけ
フェリターズ・コーブの骨には、まだ続きがある。クマがどの種なのかは、現時点では決まっていない。ヒグマなのか、ホッキョクグマなのか、いま分析が進められているところだ。
これは細かい話に見えて、実はそうでもない。アイルランドのヒグマは青銅器時代に絶滅したと考えられている。そして、絶滅する前にホッキョクグマと交雑していたことを示す研究があり、当時のアイルランドのヒグマは現代のヒグマとホッキョクグマの中間のような存在だったとされる。種が確定すれば、島のクマがどう消えていったのかという別の問いにも手がかりが出てくる。
ZooMSでヒトと確認された2点についても、同位体分析と古代DNA分析が予定されている。中石器時代の人骨はもともと数が少ないので、こちらから出てくる情報も小さくないはずだ。
読むときに気をつけたい点も一つある。この報告が載った『PAST』は先史学会の会報で、同じ学会が出している査読つきの学術誌『Proceedings of the Prehistoric Society』とは別の刊行物である。会報の寄稿は本文に文献注を付けない体裁で書かれる短い報告で、査読を経た論文としての発表ではない。分析そのものの妥当性を疑う理由は見当たらないものの、詳細が学術誌の形で出るのはこれからということになる。
それでも、この一件がはっきり示したことがある。30年前に掘り出され、袋に入れられて大学の収蔵庫にしまわれていた骨のかけらが、当時は存在しなかった手法にかけられて、一国の歴史の書き出しを揺らした。ムシュロン博士は、中石器時代の人びとについては痕跡をほとんど残さなかったと思われがちだが、すでに手元にある遺跡と資料に新しい目と新しい技術で向き合うだけで、まだ理解できることはたくさんある、と話している。捨てずに取っておく、というだけの地味な習慣が、後になって効いてくることがあるということでもある。
出典
PAST – The Prehistoric Society(会報のバックナンバー配布ページ)
日本列島の更新世の「牛川人」は人類化石ではないと結論(新潟医療福祉大学プレスリリース, 2024年12月1日)
「牛川人骨」の部位・動物種別の特定と学史略考(Anthropological Science〈Japanese Series〉)


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