古第三紀は、6600万年前から約2303万年前まで続いた、新生代の最初の紀です。古いほうから暁新世(ぎょうしんせい)・始新世(ししんせい)・漸新世(ぜんしんせい)という3つの世に分かれます。
この記事で追うのは、その真ん中あたりで起きた2つの出来事です。ひとつは、5600万年前に地球を襲った、地質記録に残る中でも指折りの急激な温暖化。もうひとつは、その温室のような世界で進んだ、哺乳類史上もっとも大胆な引っ越し——クジラの祖先が陸を捨てて海へ戻っていく物語です。
5600万年前に起きた急激な発熱
暁新世と始新世の境目にあたる5600万年前、大気と海に莫大な量の炭素が流れ込みました。放出は数千年という、地質の時間感覚では一瞬のうちに進み、その量は炭素にしておよそ3000〜4500ギガトンと見積もられています。地球の平均気温は5〜8度上がり、高温の状態は十数万年続きました。この出来事は「暁新世・始新世温暖化極大」、英語の頭文字をとってPETMと呼ばれています。
海では炭素を吸い込んだ海水が酸性に傾き、深海底では炭酸カルシウムの殻や堆積物が溶けました。海底で暮らす有孔虫という小さな生きものは、種の3〜5割が姿を消しています。いっぽう陸では大量絶滅と呼べるほどの被害は出ず、代わりに動物たちの分布と体が大きくかき回されました。炭素がどこから来たのかは、北大西洋の火山活動説や海底のメタンハイドレート説などが挙がっていますが、いまも決着していません。

暑さに縮んだ、最初のウマ
PETMの始まりとほぼ同時に、北アメリカとヨーロッパの地層には、それまでいなかった動物たちがいっせいに現れます。ウマを含む奇蹄類、ウシやシカにつながる偶蹄類、そして霊長類。現在の哺乳類の主だった顔ぶれが、この温暖化の波に乗るように分布を広げたのです。
その先頭にいたのが、最古級のウマとして知られるシフルヒップスです。もともと体重5キロあまり、小型犬ほどの大きさしかない森のウマでしたが、PETMのあいだにさらに縮みました。ワイオミング州の化石を歯の大きさから追った研究によると、温暖化が進んだ最初の13万年ほどで体重はおよそ3割減り、小さめの飼い猫と同じくらいに。その後、気温が下がり始めると、今度は体が大きく戻っていきました。気温と体のサイズが、まるで連動するグラフのように動いていたのです。同じ時期、哺乳類の3分の1ほどの種で同様の小型化が起きたと見られています。

蹄のある、クジラにいちばん近い親戚
この温室の世界で、海へ向かう哺乳類がいました。クジラです。クジラが「陸から海へ戻った哺乳類」であること自体はダーウィンの時代から見当がついていましたが、では陸のどの動物から出発したのかは、長いあいだ手がかりの乏しい問題でした。DNAの比較からは意外な答えが出ています。現在生きている動物の中でクジラにいちばん近いのは、カバなのです。つまりクジラは、蹄のある草食獣のグループである偶蹄類の内側から生まれたことになります。
化石の側でその出発点に最も近いとされるのが、インド・カシミール地方の約4800万年前の地層から見つかったインドヒウスです。見た目は小さなシカのような動物で、大きさはネコほど。細い脚の先には蹄がありました。ところが骨を調べると、骨壁が異様に分厚く重いことが分かります。これは水に潜る動物によく見られる特徴で、体を沈めるおもりの役割を果たします。歯の分析からは植物食だったこともうかがえ、インドヒウスは、危険が迫ると水に逃げ込むカバのような暮らしを、すでに川や湿地で送っていたようです。

耳の骨が明かした家系
ただ、シカのような小動物とクジラを結びつけた決め手は、蹄でも骨の重さでもありませんでした。耳です。
クジラの仲間には、中耳を包む骨の一部が異様に分厚くふくらんだ、インボルクラムと呼ばれる構造があります。水中で音を骨づたいに受け取るのに関わるとされる構造で、化石種を含め、クジラの系統だけが持つ「家紋」のような特徴です。インドヒウスの頭骨を調べていた研究室で、標本の耳を覆う骨が作業中に欠け、その内側からこの分厚い骨が現れました。陸を歩く蹄の動物の頭に、クジラだけのはずの耳が収まっていたのです。この発見は2007年にNature誌で報告され、クジラの家系図の根元を固める証拠になりました。
同じことは、最初期のクジラそのものにも言えます。パキスタンの約5000万年前の地層から見つかったパキケトゥスは、「最初のクジラ」と呼ばれる動物ですが、姿はオオカミほどの大きさの、4本の脚で走れる陸の獣でした。それでも頭骨にはインボルクラムがあり、耳はすでにクジラのものでした。ヒレも潮吹きもまだない段階で、クジラをクジラたらしめる特徴は水辺の暮らしの中で先にでき始めていました。クジラの系譜は、泳ぎの才能からではなく、水の中の音を聞く耳から始まっていたことになります。

1000万年で終わった引っ越し
ここから先の変身は、化石が段階ごとに残っている点で、進化の実例として教科書級です。約4800万年前のアンブロケトゥスは全長3メートルほど。「歩くクジラ」という意味の名前のとおり、水かきのついた大きな足で泳ぎも歩きもでき、ワニのように水辺で獲物を待ち伏せしていたと考えられています。その後のプロトケトゥス類は外洋へ乗り出し、テチス海と呼ばれた当時の暖かい海づたいに、アフリカや南北アメリカまで分布を広げました。
そして約4000万年前には、バシロサウルスが現れます。全長15メートルを超える、完全に海だけで生きるクジラです。もう陸には上がれません。それでも体の後ろには、数十センチしかない小さな後ろ足がぶら下がっていました。陸を走っていた時代の名残です。パキケトゥスからバシロサウルスまで、およそ1000万年。哺乳類の体の設計がここまで作り替えられた例としては異例の速さで、鼻の穴が吻の先から頭のてっぺんへ移っていく途中経過まで、化石で追うことができます。

温室の終わりに
クジラを育てた温室の時代は、永遠には続きませんでした。3390万年前、始新世の終わりに気候は大きく冷え込み、南極大陸に本格的な氷床ができます。漸新世の冷たく栄養豊かな海で、クジラたちは獲物を歯でとらえる系統と、海水ごとこして食べる系統——のちのハクジラとヒゲクジラ——へと分かれていきました。
いっぽう、時代の前半にあったPETMは、現代と引き比べられることの多い出来事です。ただし比べてみると、規模より速さの違いが際立ちます。堆積物の記録から見積もられたPETMの炭素放出は、最大でも年11億トンに届かなかったのに対し、人間活動による放出は年およそ100億トンと、その10倍近くに達しています。5600万年前の発熱は過去6600万年で最大の炭素放出イベントでしたが、速さでは現在が上回っており、そもそも比べられる前例が地層に残っていない、というのが研究者の見立てです。あのとき何がきっかけで炭素があふれ出したのかも含めて、PETMの調査は続いています。
出典
インドヒウスとクジラの起源の論文:Thewissen, J. G. M. et al.(2007)“Whales originated from aquatic artiodactyls in the Eocene epoch of India”, Nature. DOI:https://doi.org/10.1038/nature06343
PETMと現代の炭素放出速度を比べた論文:Zeebe, R. E. et al.(2016)“Anthropogenic carbon release rate unprecedented during the past 66 million years”, Nature Geoscience. DOI:https://doi.org/10.1038/ngeo2681
シフルヒップスの小型化の論文:Secord, R. et al.(2012)“Evolution of the Earliest Horses Driven by Climate Change in the Paleocene-Eocene Thermal Maximum”, Science. DOI:https://doi.org/10.1126/science.1213859
本文中の境界年代は、国際層序委員会(ICS)の国際年代層序表に基づいています。


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