心不全の診断で長年ものさしになってきた「駆出率(くしゅつりつ)」という数字があります。心臓が1回の収縮で、中に溜まった血液の何パーセントを送り出せているかという割合です。この数字が何パーセント以下なら心不全、という線引きが世界中で使われてきました。
その線引きが、書き換えられました。米国心臓協会(AHA)、米国心臓病学会(ACC)、欧州心臓病学会(ESC)、世界心臓連合(WHF)の4団体が合同で、心不全の「世界共通の定義」の改訂版を発表したのです。文書は2026年6月29日、Circulation、JACC、European Heart Journal、Global Heartという各団体の看板学術誌4誌に同時掲載されました。正式名は「Second Universal Definition of Heart Failure」——第2版の世界共通定義です。
先に性質をはっきりさせておくと、これは新しい研究成果ではありません。世界中の専門家が集まって「心不全とは何か」の共通認識をすり合わせた合意文書(コンセンサス・ステートメント)で、診療ガイドラインでもありません。ただ、この種の文書は各国のガイドラインの土台になるので、影響の射程はむしろ広いといえます。世界で6400万人以上が抱える病気の「定義そのもの」が動いた、という話です。
駆出率という一つの数字が担ってきた役割
心不全は、心臓のポンプとしての働きが落ちて、血液を全身へ十分に送り出せなくなったり、心臓に血液を溜め込めなくなったりする状態です。息切れやむくみといった症状が出て、世界で入院原因の第1位を占めています。
この病気の分類で中心にあり続けたのが、冒頭の駆出率でした。左心室の駆出率(LVEF)が40%を下回れば「駆出率の低下した心不全(HFrEF)」、50%以上なら「駆出率の保たれた心不全(HFpEF)」、その間は「軽度低下(HFmrEF)」——こうした数値の線引きは日本の診療現場でも定着していて、健康診断や心エコー検査の結果票で目にした方もいると思います。
線引きには実用上の理由がありました。心不全の薬の臨床試験は、参加者を駆出率の範囲で絞り込んで行われてきたからです。「駆出率40%未満の患者にこの薬が効いた」という試験結果があれば、目の前の患者の数値と照らして薬を選べる。数十年にわたり、駆出率は治療方針を決める入り口として機能してきました。
2021年には、この枠組みを世界で統一しようと最初の「世界共通の定義」が作られます。それまで国や学会ごとにばらばらだった心不全の定義をそろえた、画期的な文書でした。今回の改訂は、そのわずか5年後にあたります。
「カットオフ値は恣意的だった」という当事者の総括
今回の文書で目を引くのは、改訂の理由の書きぶりです。執筆グループは本文にこう明記しました——第1版で使われた駆出率のカットオフ値(線引きの数値)は「恣意的(arbitrary)だった」と。
外部からの批判ではありません。世界共通の定義を作った当の国際チームが、5年後の改訂版で自ら書いた総括です。基準を作った本人たちが「あの線引きに確たる根拠はなかった」と認め、数値による線引きそのものをやめる。医学の合意文書として、かなり思い切った書き方だと思います。
恣意的とされた根拠も具体的です。まず、駆出率の測定値は検査のたびにぶれることが知られています。測定に使う機器(心エコー、MRIなど)によっても値が変わります。さらに、そもそもの「正常値」が人によって違う。文書が引く研究では、正常な駆出率の下限は女性でおよそ53%、男性で52%、アジア系の人ではやや高めと報告されています。性別・年齢・民族で正常の範囲が動くのに、全員に同じ数値の線を引いてきたわけです。
そこで第2版は、数値のカットオフを手放し、分類を3つに簡素化しました。「駆出率の低下した心不全」「駆出率の保たれた心不全」、そして治療で駆出率が回復した「駆出率の改善した心不全」です。数だけ見ると従来と同じ3つですが、中身が入れ替わっていて、「軽度低下」という真ん中の区分は消えました。軽度低下の患者にも低下型と同じ治療が効くという証拠が積み上がってきたためで、厳密な数値で区切る意味が薄れていたのです。
診断の考え方も、この方向に沿っています。文書は、心不全は単一の検査値で決まるものではなく、症状、診察所見、血液検査(BNPなどの心臓の負担を示す物質)、画像検査といった手がかりの積み重ねで総合的に判断するものだと強調しました。実際、駆出率が保たれた心不全の患者には、血液検査が正常値なのに精密検査では明らかな心不全という人が相当数いることも分かっています。共同議長を務めた循環器内科医のMary Norine Walsh氏は、Circulationのポッドキャストで「この改訂は、駆出率がどうであれ、心不全が時間とともに変化するものだと認めるものです」と語っています。数字がしきい値の上にあるからといって、心臓が大丈夫という保証にはならない——定義の側が、その現実に合わせて形を変えたことになります。
2分類から18分類へ広がった原因の地図
もうひとつの大きな変更が、原因の分け方です。これまでの診療現場では、心不全の原因はしばしば「虚血性(血管が詰まって心臓の筋肉に血が届かなくなるもの)か、それ以外か」という2分類で済まされてきました。Walsh氏も「私が医学生だった頃から、虚血性か非虚血性かとしか言ってこなかった」と振り返っています。
第2版はこれを、18のカテゴリーに広げました。全部は挙げませんが、たとえば高血圧によるもの、弁膜症(心臓の弁の不具合)によるもの、ウイルス感染によるもの、遺伝性のもの。それから、妊娠・出産にともなう「周産期心筋症」、強い精神的ストレスで起きる「たこつぼ心筋症」(日本で名付けられた病名です)、がん治療の薬が心臓に負担をかけるケースまで、原因ごとに独立した区分が与えられています。
ここまで細かく分ける理由は、原因によって打つ手が変わるからです。たとえば心アミロイドーシスという物質沈着が原因なら、標準的な心不全治療とは別に、その病気を狙った治療薬があります。「心不全」とひとくくりにした時点で見えなくなる治療の選択肢を、原因の分類で拾えるようにする狙いです。
地域差への目配りも、この分類の背景にあります。虚血性の心不全は欧米では主因ですが、サハラ以南のアフリカでは原因の1割にも届かず、代わりに高血圧やリウマチ性心疾患、周産期心筋症が目立つと文書は指摘しています。欧米基準の2分類では、世界の心不全の実像を捉えきれていなかったのです。
85%が持っていた「変えられる危険因子」
原因を見分けることの意味を、文書はひとつの数字で裏付けています。92種類の危険因子を横断的に調べた2022年の集団ベース研究(Banerjeeら)によると、心不全と診断された人のほぼ85%が、診断までの5年間に、予防的な治療で対処できた危険因子を少なくとも1つ持っていたというのです。
つまり大半のケースで、発症の何年も前に手を打てた可能性のある「入り口」が存在していた。原因をきちんと分類し、早い段階で見つける仕組みがあれば、心不全になる前に流れを変えられたかもしれない——第2版が診断基準の話にとどまらず、発症前の段階(リスクあり・前心不全)の扱いに多くの紙幅を割いているのは、この認識があるからです。
もうひとつ、患者にとって意味の大きい変更があります。第2版は心不全を「固定された診断」ではなく、改善・寛解・回復という経過をたどりうる動的な状態として描き直しました。治療で駆出率が戻り、症状が消える人は実際にいます。ただし文書は、改善した人も再発のリスクを抱え続けるため治療の継続が必要だと釘を刺していて、このあたりは楽観と慎重さのバランスが取られています。
日本との関わりにも触れておきます。今回の文書には、米欧の学会だけでなく日本心不全学会が協力団体として参加していて、執筆グループには富山大学の絹川弘一郎氏が名を連ねています。2021年の第1版も日本心不全学会が共同で作ったものでした。つまり日本は、この定義づくりに最初から関わっている側です。とはいえ、国際的な合意文書が出ても、日本の診療ガイドラインにすぐ反映されるわけではありません。米国では、この定義を土台にした新しい心不全ガイドラインが2027年後半に出る予定とされています。日本のガイドラインがこの3分類や18の原因分類をどう取り込むかは、これからの話です。
健康診断の数値に線が引かれていると、その線には確かな根拠があるように見えます。今回の改訂が示したのは、世界の専門家が総力で引いた線でさえ、5年後に当人たちの手で「恣意的だった」と書き換えられることがある、という事実です。基準値は自然界に存在するものではなく、その時点の知見で人が引く約束事にすぎない。心不全の定義が数字から離れて病気の実像へ近づいていく過程は、そのことをよく物語っていると思います。

上の図の左が従来の考え方で、駆出率という一つの数値の線引きと、虚血性か否かの2分類が診断の軸でした。右が第2版の考え方で、複数の手がかりを積み重ねて総合的に判断し、原因は18のカテゴリーで見分けます。
出典
合意文書の本文は、世界心臓連合の学術誌Global Heartでは無料で全文を読めます:AHA/ACC/ESC/WHF Expert Consensus Document: Second Universal Definition of Heart Failure (2026)(Global Heart)
同じ文書のCirculation掲載版はこちら:Circulation(DOI: 10.1161/CIR.0000000000001455)
発表の概要は世界心臓連合のプレスリリースにまとまっています:Global experts update heart failure definition to improve prevention, diagnosis and care(World Heart Federation)
今回の話題を紹介した海外記事:Cardiologists Just Changed The Universal Definition of Heart Failure(ScienceAlert)


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