生物学の実験の多くは、「抗体」という試薬に支えられています。狙ったタンパク質にだけくっつく分子で、細胞の中に目当てのタンパク質があるかどうかを確かめるとき、まず頼るのがこれです。メーカーのカタログには、「この抗体はちゃんと働きます」という証拠写真——検証画像(validation image)が添えられていて、研究者はそれを見比べながら製品を選びます。
2026年8月25日、Natureのニュースが、その検証画像をめぐる大規模な調査結果を報じました。米ノースウェスタン大学のメタサイエンス研究者(科学のやり方そのものを研究する専門家)、リース・リチャードソン氏が、試薬メーカー15社のカタログから、デジタル編集の痕跡がある「疑わしい画像」を1万8000点以上見つけ、その一覧をデータベースとして公開したのです。27万点を超える画像を機械的に処理したうえで、1点ずつ目視で確認するという、途方もない地道さの調査でした。
実験を支える試薬と検証画像の役割
抗体は、Y字型をした生体分子です。特定のタンパク質にだけ結合する性質があるため、細胞や組織の中で「どのタンパク質が、どこに、どれだけあるか」を可視化する道具として、生物学や医学の実験室で日常的に使われています。市販の抗体を扱う会社は世界に多数あり、大手になると数十万種類の製品をカタログに並べています。
そのカタログで大きな役割を果たすのが検証画像です。代表的なのは「ウエスタンブロット」と呼ばれる実験の写真で、混ざり合ったタンパク質の中から、抗体が狙いのタンパク質だけに印を付けた様子を写します。よく働く抗体なら、写真にはくっきりした1本の帯(バンド)が現れます。逆に、狙いを外して余計なものにくっつく抗体だと、ぼやけた帯が何本も出てしまいます。研究の不正やミスを見つけ出す仕事を専門とする英国の分子生物学者、ショルト・デイビッド氏は、この画像について「抗体を買うかどうか判断するとき、頼れる数少ない手がかりのひとつ」だと指摘しています。つまり検証画像は、通販サイトの商品写真というより、品質保証書に近い重みを持っているわけです。
以前からくすぶる信頼性への疑問
実は、市販抗体の信頼性は以前から問題になってきました。2023年に発表された研究では、市販の抗体614本を実際に検証したところ、50%超が宣伝どおりに働かなかったと報告されています。働かない抗体が世界の研究にもたらす損失は、年間10億ドルを超えるという推計もあります。実験がうまくいかないとき、研究者は自分の腕や条件設定を疑いますが、原因が試薬そのものにあるケースが相当な割合で紛れ込んでいる、ということです。
そうした中で今年5月、デイビッド氏とリチャードソン氏が、大手Thermo Fisher(サーモフィッシャー)のカタログから100点を超える疑わしい検証画像を見つけたというニュースが流れました。このときThermo Fisherは「データと科学的根拠を全面的に支持する」としつつ、画像は見栄えのために「編集・調整されている場合がある」と説明しています。リチャードソン氏が今回行ったのは、この調査を桁違いに広げる作業でした。
27万点の総当たり調査
リチャードソン氏はまず、画像の黒レベルと白レベルを自動で上げ下げしてコントラストを強調するプログラムを自作しました。編集の痕跡は、明るさを極端に振ると浮かび上がることがあるためです。このプログラムに27万点を超えるカタログ画像を通し、そのうえで1点ずつ手作業で目視確認していきました。
その結果フラグが立ったのが、15社にまたがる1万8000点超の画像です。多くの会社は数百点程度でしたが、4社が突出していました。件数の多い順に、G-Biosciences(米ミズーリ州)が6,388点、Thermo Fisher(米マサチューセッツ州)が5,580点、LSBio(米カリフォルニア州)が2,695点、Origene(米メリーランド州)が2,236点。リチャードソン氏によれば、その多くに広範なデジタル編集の痕跡が見られたといいます。
1万3800点が共有していたわずか7種類の背景
見つかった問題の中で、とりわけ目を引くものがひとつありました。画像の「背景」です。
ウエスタンブロットの写真の背景には、テレビの砂嵐のような細かいノイズが写り込みます。このノイズは実験ごとにランダムに変わるので、本来、2枚の写真の背景が一致することはまずありません。ところがリチャードソン氏が調べると、約1万3800点もの画像が、たった7種類の背景のどれかを共有していました。別々の製品の「証拠写真」のはずなのに、下地が同じだったのです。

しかも話はそこで終わりません。同じ背景が、複数の会社をまたいで使われているケースが多数あったのです。会社が違えば実験室も違うはずで、背景が一致する自然な理由は考えにくくなります。画像不正解析の第一人者として知られるエリザベス・ビック氏は、この種の改変について、これらの抗体が実験室で一度もテストされていなかったことを示唆する、と述べています。つまり、写真を加工して見栄えを整えたという次元ではなく、そもそも実験をせずに「証拠写真」だけが量産されていた可能性がある——それが今回の調査で浮かび上がった、いちばん重い論点です。
「疑わしい」の線引きと各社の反応
ここで、言葉の線引きをはっきりさせておく必要があります。今回の1万8000点超は、あくまで「疑わしい(questionable)」画像であって、不正と断定されたものではありません。Nature自身も断定を避けた表現を使っています。また、この調査は査読を経た論文ではなく、個人研究者によるデータベース公開と、それを報じたニュース記事です。フラグの立った画像すべてが第三者の再確認を受けたわけでもありません。ただし、Natureが調査資料を確認するよう依頼した複数の専門家は、リチャードソン氏の手法自体は妥当だと評価しています。
もうひとつ大事な点として、画像に編集の痕跡があることと、製品そのものに欠陥があることは、イコールではありません。米フレデリック国立がん研究所で抗体特性評価研究室を率いるシモーナ・コラントニオ氏は、「がっかりだが、驚きはしない」としつつ、悲しいのは、フラグの立った抗体の中に実際にはよく働くものも含まれているだろうことだ、と話しています。画像の扱いがずさんだったせいで、まともな製品の信頼まで巻き添えになりかねない、という指摘です。
名指しされた企業の反応は分かれました。Thermo Fisherは声明で、進行中の製品レビューでは「抗体の性能や背後の科学データに影響したという証拠は見つかっていない」とし、カタログ製品の品質に自信を持っていると述べています。LSBioは、指摘された画像は「当社プラットフォーム全体の0.04%未満」としながらも、懸念を深刻に受け止め、提携先とともに調査すると回答しました。一方、G-BiosciencesとOrigeneは、Natureのコメント要請に応じていません。
業界全体に広がる課題
それでも、フラグの立った数の大きさは、研究者たちに衝撃を与えています。市販抗体の検証活動に取り組む英国のオープンサイエンス団体「Only Good Antibodies」の共同創設者ハービンダー・ヴァーク氏は、これは業界全体にわたる問題であり、解決にも業界全体の仕組みが要る、と述べています。個々の会社の品質管理の話にとどまらず、「検証画像を各社の自己申告に任せる」という仕組みそのものが問われている格好です。
リチャードソン氏の調査結果は、デイビッド氏との共同名義で、研究データ共有サイトZenodoに公開されています。どの会社の、どの製品の、どの画像に、どんな問題が見つかったのかを1点ずつ記録したもので、誰でも無料でダウンロードできます。第三者が見つけた疑わしい画像の報告も受け付けており、8月25日版のデータベースには、すでに16社・1万7495製品・1万8943点が記録されています。数字は今後も動いていくとみられます。
世界中の実験室が、この試薬の上に乗っています。日本の研究機関も例外ではありません。今回の調査が明らかにしたのは個々の不正の証拠ではなく、「証拠写真が証拠として機能していないかもしれない」という構造的な弱点です。カタログの写真を信じて買うしかなかった研究者たちに、それを検証する手段がひとつ増えた——現時点で言えるのは、そこまでです。この動きが業界の検証慣行をどう変えるかは、まだ分かりません。
出典
Dan Garisto「More than 18,000 questionable images found in antibody catalogues of 15 companies」Nature ニュース(2026年8月25日、DOI: 10.1038/d41586-026-02635-w)
Reese Richardson, Sholto David「Problematic images in vendor antibody verification data」Zenodo(2026年8月25日版データベース、DOI: 10.5281/zenodo.22090940、CC BY 4.0)
「Science sleuths uncover more than 100 suspicious images in Thermo Fisher antibody catalogue」Nature ニュース(2026年5月・今回の調査の前段)
Ayoubi et al.「市販抗体614本の検証で50%超が宣伝どおりに働かなかったとする2023年の研究」eLife(全文無料)


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