世界中の温室効果ガス排出を追跡する著名なデータベース「Climate TRACE(クライメート・トレース)」が、都市を走る車のCO2排出を大幅に少なく見積もっているのではないか——そんな検証結果を、米ノーザンアリゾナ大学の研究チームが2026年5月、環境科学の専門誌Environmental Research Lettersに発表しました。アメリカの260都市を調べたところ、Climate TRACEの数値は比較対象のデータベースより平均で70%も低かったといいます。
ただし、Climate TRACEを運営する側はこの検証結果に反論しており、話は一方的な指摘では終わっていません。この記事では、双方の主張を並べて見ていきます。
Climate TRACEというデータベース
Climate TRACEは、元米副大統領のアル・ゴア氏らが共同で立ち上げた国際的な連合体が運営する、温室効果ガス排出の世界データベースです。衛星画像などをAI(機械学習)で解析して、世界中の発電所・工場・道路といった排出源ごとの排出量を推計するのが特徴で、2020年の始動時にはTime誌の「その年の最良の発明100」にも選ばれました。
各国が国連に提出する公式の排出量報告は、燃料の販売統計などから積み上げる方式で、集計に時間がかかるうえ、国や自治体によって精度もまちまちです。それに対してClimate TRACEは、衛星という「独立した目」で世界を一律に観測できる点が売りで、報告をごまかせない排出監視の切り札として期待されてきました。気候政策の議論でも参照される、影響力の大きいデータベースです。
ノーザンアリゾナ大学による検証の中身
今回の検証を率いたのは、ノーザンアリゾナ大学のケビン・ガーニー教授です。ガーニー教授の研究室は「Vulcan(バルカン)」という、アメリカ国内のCO2排出を道路一本の単位まで細かく推計するデータベースを20年近く開発してきました。Vulcanは米環境保護庁や連邦道路庁などの公式な交通・エネルギー統計に合わせて較正されており、道路交通分の誤差はおよそ14%と見積もられています。
研究チームは、このVulcanとClimate TRACEについて、アメリカ260都市の自動車由来のCO2排出量を突き合わせました。結果は、Climate TRACEの数値がVulcanより平均で70%低いというものでした。都市別に見ると、インディアナポリスやナッシュビルでは90%以上も低かったといいます。仮にVulcanの側に14%の誤差があるとしても、70%という開きはそれでは説明がつかない、というのが研究チームの見立てです。
研究チームが同様の手法で発電所を調べた先行研究でも、Climate TRACEの数値は平均50%低いという結果が出ていました。2つを合わせると、アメリカの都市部の化石燃料由来CO2の半分以上について、Climate TRACEは大幅な過小評価をしている疑いがある——研究チームはそう主張し、ずれの原因として、機械学習モデルの偏りや、燃費・車種構成の想定値の問題を挙げています。

真っ向から食い違う双方の主張
ところが、この検証結果に対してClimate TRACE側は明確に異を唱えています。共同創設者のギャビン・マコーミック氏は米メディアGizmodoへの声明で、「もし全面的に70%低いのが本当なら、我々のアメリカの道路交通の合計値は既存の公式集計から大きく外れるはずだ」と反論しました。実際、Climate TRACEが算出した2021年のアメリカの道路交通の排出量は15億トン(CO2換算)で、国連に提出された公式値の14.5億トンとよく一致しています。
さらにマコーミック氏は、大気中の放射性同位体の観測から排出量を逆算する独立した推計——Vulcanが自らの正確さの根拠にしている検証方法——と比べても、Climate TRACEのアメリカ全体のCO2排出量は1.4%程度しかずれていないと主張しています。つまり、国全体の合計で見れば、VulcanもClimate TRACEも「公式データや独立推計とほぼ一致している」と言えてしまうのです。それなのに、都市単位で突き合わせると平均70%も食い違う。どちらかが大きく間違っているはずなのに、どちらも自分の検証結果を持っている——これがこの論争の不思議なところで、単純にどちらが正しいと言い切れない理由でもあります。
応酬はさらに続いています。Climate TRACE側は後日、「検証に使われたのは更新前の古いデータで、異常値は論文発表前に修正済みだった」と指摘しました。これに対してガーニー教授は、「指摘された異常値では、今回見つかった食い違いの大きさは説明できない」と再反論しています。マコーミック氏は研究の主張には同意しないとしつつも、「この分析をもとに改善できる点があれば、喜んで取り入れる」とも述べており、対話の余地は残されているようです。
解釈上の留意点
この論争を眺めるうえで、押さえておきたい点がいくつかあります。
まず、検証の「ものさし」を巡る構図です。今回の研究は、ガーニー教授自身が開発したVulcanを基準にしてClimate TRACEを評価しています。Vulcanは公式統計に較正された実績あるデータベースですが、比較の基準が検証者自身の成果物であることは、結果を読むうえで頭に入れておいてよい事実です。研究チーム自身も、Vulcanは完璧ではないと認めています。
次に、合計と内訳は別の問題だという点です。国全体の合計が公式値と合っていても、その排出を「どの都市の、どの道路に割り付けるか」という内訳が正しいとは限りません。都市ごとの排出量データは、自治体が対策の優先順位を決める際の土台になるので、内訳のずれは実務に響きます。今回の食い違いが、合計は合っているのに割り付けでずれているのか、それとも比較の方法自体に原因があるのかは、まだはっきりしていません。
そして、これはAIによる排出量推計そのものを否定する話ではない、という点です。衛星とAIで排出を独立に監視するというClimate TRACEの発想自体は、研究チームも有望なアプローチだと認めています。そのうえで、新しい手法だからこそ透明性や専門家による検証が欠かせない、というのが論文の主眼です。論文には、Climate TRACEのデータを改善するための具体的な提言も盛り込まれています。
排出量のデータは、各国の気候政策や予算配分の土台になる情報です。今回の論争がどう決着するかはまだ分かりませんが、影響力のあるデータベースが外部の目で検証され、運営側が具体的な数字で応答するというやり取り自体は、データの信頼性を高めていくうえで健全なプロセスだと言えそうです。
出典
今回の論文は、Environmental Research Lettersに掲載されています(査読済み・無料で全文を読めます)。あわせて、ノーザンアリゾナ大学のプレスリリースと、Climate TRACE側の反論を報じたGizmodoの記事も参照しました。
論文(Environmental Research Letters)
ノーザンアリゾナ大学のプレスリリース
Climate TRACE側の反論を含むGizmodoの報道


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