ゴキブリの背中に、小さな注射装置を載せる。遠隔操縦で瓦礫の下まで歩かせて、閉じ込められた人に薬を届ける——。オーストラリアのクイーンズランド大学の研究チームが、そんな「救急隊員ゴキブリ」を実際に作り、性能を確かめた結果を学術誌Advanced Scienceに発表しました。
チームはこの昆虫を「パラボーグ(Paraborg)」と呼んでいます。救急救命士(パラメディック)とサイボーグを掛け合わせた造語です。冗談のような響きですが、中身はいたってまじめな災害医療の研究です。
人も機械も入れない隙間
建物が崩れた現場には、誰も入れない空間ができます。折り重なったコンクリートの下、崩れた床のあいだ、細い配管の中。救助隊員はもちろん、災害救助犬も体が入らず、ドローンは飛ぶ空間そのものがありません。
そこで昔から注目されてきたのが昆虫です。数センチの体で、暗く狭く不安定な場所を自力で歩き回れる。この能力を機械で作ろうとすると、防水や姿勢制御や電源をすべて自前で積むことになり、小さなロボットではバッテリーがすぐに尽きてしまいます。生きた昆虫なら、「歩く」という一番エネルギーを食う部分を本人の筋肉がやってくれる。人間が用意するのは、進む方向を指示する小さな回路だけで済みます。
「探す」ために磨かれてきたサイボーグ昆虫
昆虫に電極と無線モジュールを背負わせて操縦する「サイボーグ昆虫」の研究は、20年ほど前から各国で続いてきました。日本もこの分野の主要プレイヤーで、理化学研究所を中心とするチームは2022年、厚さわずか4ミクロン(髪の毛の20分の1ほど)の極薄太陽電池フィルムをマダガスカルゴキブリの腹部に貼り、充電しながら遠隔操縦できるサイボーグゴキブリを発表しています。出力は17.2ミリワットで、それまでの昆虫搭載型発電デバイスを大きく上回る数字でした。
ただ、これらの研究が目指してきた役割は、一貫して「探すこと」でした。カメラやセンサーを背負って瓦礫の奥へ入り、生存者を見つけて位置を知らせる。いわば動く探索センサーです。見つけたあとに何ができるかは、ずっと手つかずのままでした。
「見つける」から「治療する」への一歩
今回のクイーンズランド大学の研究が踏み出したのは、まさにそこです。見つけた人を、その場で助けられないか。つまりサイボーグ昆虫を、探索センサーから治療を届ける道具へ変えようという試みです。
研究チームを率いるタン・ヴォ=ドアン博士は、サイボーグ昆虫はこの20年「探して回る」任務のために設計されてきたと振り返ったうえで、次の段階として「誰かを見つけたあと、実際に助けられるか」を問いたかったと説明しています。

使われたのは、オーストラリア北部に生息するオオモリゴキブリ(Macropanesthia rhinoceros)。世界でもっとも重いゴキブリとされる種で、体長は最大8センチに達します。性格はおとなしく、比較的清潔で病気も持たないため、現地ではペットとしても飼われているそうです。何より、センチメートル級の装置を背負って歩ける体格が決め手でした。ちなみにこの種はオーストラリアの固有種なので、日本で同じ実験をしようにも、そもそも手に入りません。
操縦の仕組みは、触角などに取り付けた電極への電気刺激です。刺激を送ると左右に曲がり、速度も調節でき、さらに「その場で静止させる」こともできます。注射の狙いを定めるあいだ、勝手に動かれては困るからです。
そして背中には、役割ごとに違う装備を載せます。ある個体は小型カメラを背負って現場の映像を送り、別の個体はバネ式の自動注射機構を背負って薬剤を打ち込む。カメラ個体が目となり、注射個体が手となる、チーム制です。注射のボタンを押すのはあくまで遠隔地にいる人間で、医療上の判断を昆虫やプログラムに任せる設計にはなっていません。
実験室での成績は、次のとおりでした。
操縦して目標地点(チェックポイント)に到達させる誘導は、成功率100%。自動注射機構そのものの作動成功率は90%。目標の15センチ以内まで近づけた場合の注射成功率は95%。一方、注射のために体を静止・安定させられた割合は72%にとどまりました。全25回の試行のうち7回は、外部の追跡装置を使わず、ゴキブリが背負ったカメラの映像だけを頼りに操作しています。カメラを積んだ個体は、高さが約12ミリ、重さが約26グラム増えますが、それでも歩けてしまうのがこの巨大種の強みです。
実験室と災害現場のあいだ
数字を見ると、弱点がどこにあるかは明らかです。目的地に着かせることはほぼ完璧にできる。注射装置も動く。難しいのは、生きた昆虫を「注射が終わるまでじっとさせておく」ことでした。72%という数字は、この研究の現在地を正直に示しています。
注意しておきたいのは、これがあくまで実験室での実証実験(proof of concept)だという点です。実際の瓦礫は暗く、粉塵が舞い、足場は崩れます。そうした環境での試験はこれからです。また、論文の段階では「液体の薬剤を届ける」ことの実証にとどまっていて、実際にどの薬を積むのか——鎮痛剤なのか、アドレナリンなのか——はまだ特定されていません。大学が公開したデモ動画で注射の的になっているのは、生肉の塊です。
ヴォ=ドアン博士自身、実際の災害でサイボーグ昆虫の救助チームが動く時期について「うまくいけば今後5〜10年のうちに」と、研究資金と実地試験しだいという条件つきで語っています。裏を返せば、現時点で災害現場に投入された実績はありません。

生きた昆虫を道具にすることへの視線
生きている昆虫に電極を取り付けて操縦する研究なので、動物福祉の観点からの議論は避けて通れません。この点について研究チームは、電極やマイクロチップの装着は麻酔をかけて行うこと、実験後は装備を取り外してコロニーに戻すこと、装備を外した個体の寿命は他のゴキブリと変わらないことを報告しています。昆虫を使い捨ての部品ではなく、装備を「着脱」する存在として扱う設計です。それでも生き物を道具化することに変わりはなく、この種の研究につきまとう問いとして残り続けるはずです。
日本に住んでいると、この研究は他人事に思えません。地震で建物が崩れたとき、生存率が大きく下がるまでの目安としてよく語られるのが「72時間」です。その72時間のあいだ、人が入れない隙間に水も薬も届けられないのが現状だとしたら、8センチのゴキブリがそこを歩けることの意味は小さくないでしょう。日本の理研チームが電源の問題を、オーストラリアのチームが治療の問題を、それぞれ前に進めている——サイボーグ昆虫という一見突飛な研究分野が、少しずつ実用の形に近づいているのが分かります。
瓦礫の下で心細くしているときに巨大なゴキブリが近づいてきたら、正直うれしいかどうかは分かりません。筆頭著者のハイ・ニャン・レ氏も、巨大なゴキブリが向かってくる姿を好まない人は多いだろうと認めたうえで、それでも瓦礫や洞窟に閉じ込められて助けが要るときには、生死を分ける存在になりうると話しています。数年後、防災の話題にゴキブリの名前が当たり前に出てくるようになるのかどうか、続報を追いかけたいテーマです。
出典
- 論文:H. Nhan Le et al. “Paraborg: Paramedic Cyborg Insects for In Situ Emergency Drug-Delivery,” Advanced Science (2026) https://doi.org/10.1002/advs.76973
- クイーンズランド大学プレスリリース:Paramedic cockroaches: cyborg care when rescuers can’t reach(2026年8月27日)
- The Register:Cyborg cockroaches may soon deliver life-saving drugs to disaster victims(2026年8月27日)
- 理研の太陽電池サイボーグゴキブリ:Y. Kakei et al. “Integration of body-mounted ultrasoft organic solar cell on cyborg insects with intact mobility,” npj Flexible Electronics 6, 78 (2022) https://doi.org/10.1038/s41528-022-00207-2


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