オーストラリア北西部、ピルバラ地方の海沿いに、ムルジュガ(Murujuga)と呼ばれる一帯があります。バラップ半島とダンピア諸島。ここには推定100万〜200万点の岩面彫刻——岩の表面を叩いたり削ったりして図像を彫り込んだもの——が残っています。動物、植物、儀礼、暮らしの場面。数として世界最大、そして最古級の岩絵群です。
彫ったのはンガルダ=ンガリ(Ngarda-Ngarli)の人々で、5つの言語集団——ヤブララ、ンガルルマ、インジバンディ、マルドゥドゥネラ、ウォングー=グー=ット=ウー——の総称です。制作は5万年以上にわたって続きました。2025年7月には「ムルジュガの文化的景観」としてユネスコの世界遺産に登録されています。
そして同じ土地に、液化天然ガスと肥料の巨大プラントが建っています。1960年代から続く工業地帯です。工場の排煙が岩絵を溶かしているのではないか——この疑いは何十年も言われ続けてきました。

その疑いを検証するために組まれたのが、ムルジュガ岩絵モニタリング計画(MRAMP)です。西オーストラリア州政府とムルジュガ・アボリジニ法人が主導し、カーティン大学の研究者たちと現地のレンジャーが実際の測定を担当しています。2026年8月25日、3年目の報告書が公開されました。
岩は、確かに傷んでいました。
工業地帯との距離が示すもの
調べているのは、岩の表面の「空隙率(くうげきりつ)」です。岩の外側の風化した層に、どれくらい細かい穴が空いているかを表す値だと考えてください。穴が増えるほど、その面は脆くなります。
ムルジュガの岩絵は、この表面の層あってのものです。岩の外側は鉄やマンガンの酸化物で覆われ、赤茶色をしています。その膜を数ミリだけ削ると、下から色の薄い層が出てくる。この色の差が図像になっています。つまり、表面の膜が傷むことは、絵そのものの成り立ちに直接効いてくる話です。
研究チームは3年間で、岩の表面の状態を18万6000回測りました。大気の質の観測、雨の化学組成の連続採取、実験室での岩の試験が5500件以上。そこから出てきたのが、はっきりした空間パターンでした。工業施設に近い場所の岩ほど、空隙率が高い。遠い場所の岩ほど、低い。統計的に有意な傾きです。
去年の報告書でも同じ傾向は見えていました。今年はデータの範囲を広げて確かめ直し、結果は変わりませんでした。むしろ、空隙率が高いと判定される範囲は去年より広がっています。ただしこれは新しい劣化が見つかったからではなく、統計的な有意水準の取り方を訂正した結果だと報告書は説明しています。
距離が効いている。それはつまり、風で運ばれる何かが原因だということです。
疑われていた物質の入れ替わり
去年の時点で、いちばん疑わしいとされていたのは二酸化窒素でした。ムルジュガの大気中でもっとも量の多い汚染物質で、工業と船舶の両方から出ます。ただ当時のデータでは、二酸化窒素の効果を他の物質——とくに二酸化硫黄——の効果ときれいに切り分けることができませんでした。
今年の報告書が示したのは、二酸化硫黄が主犯だという筋書きです。岩の表面で何が起きるかを、下の図にまとめました。

二酸化硫黄は大気中や岩の表面で反応して硫酸に変わります。硫酸は、岩の表面を覆っているマンガンと鉄の酸化物を溶かします。溶けた分だけ、そこに細かい穴が残る。空隙率が上がるというのは、この状態のことです。化学としては、以前から知られている反応です。
今年は、大気の化学組成、雨のpH(酸性度)、実験室での試験という3方向からの証拠がそろい、二酸化硫黄のほうが説明として強いという結論になりました。出どころは工業だけでなく、船舶の燃料も含みます。硫黄分を含む燃料を燃やせば、そのぶん二酸化硫黄が出ます。
硫黄が示した時期
ここで話がねじれます。
二酸化硫黄の排出量は、1970年代から80年代以降、ムルジュガでも世界全体でも大きく減っているのです。船舶燃料の硫黄分が各国の規制で大幅に下げられたことが大きい。いまの大気に含まれる二酸化硫黄は、当時とは桁が違います。
研究チームの観測期間中、酸性雨は一度も検出されませんでした。大気の質は、この計画が定めた暫定的な環境基準の範囲内に収まっていました。現在の排煙によって岩の劣化が加速している証拠は、見つかっていません。
つまり、距離のほうは工場を指しているのに、時期のほうは工場の過去を指した。いま並んでいる煙突ではなく、半世紀前に出ていた煙のほうが、岩の穴の説明として残ったわけです。
硫酸は単独で働いたのではなく、岩の表面に住む微生物と一緒に劣化を進めた可能性も指摘されています。この組み合わせが実際にどう効いたのかは、4年目の調査の主題になります。
もうひとつ、アンモニアについても検討されました。肥料プラントから出る物質で、岩の表面の化学的・生物的なはたらきに影響しうることが実験で示唆されています。ただし工業由来のアンモニア排出は歴史が浅すぎて、半島全体に広がる長期的な空隙率のパターンは説明できない、というのが現時点の判断です。
岩絵そのものへの影響という空白
ここから先は、報告書が答えていない部分です。
「空隙率が上がった」ことは測れました。では、それは「岩絵が失われつつある」ことと同じなのか。この点を、今回の報告書は評価していません。研究者たちの書き方は、該当する岩はより風化・劣化していて、この状態が続けば図像が薄れたり表面が剥がれたりする危険が高まりうる、という慎重な範囲にとどまっています。
この空白は、政策の場でも認識されています。連邦環境相のマレー・ワット氏がウッドサイド社の北西大陸棚事業の2070年までの延長を承認した際、その承認文書は、モニタリング計画が空隙率の増加と岩絵への影響との関係を評価していないことを認めたうえで、害が生じるおそれはあると述べています。細かく精密に彫られた図像の価値を損なう可能性がある、他の作用を受けやすい状態になるおそれがある、という書きぶりです。
報告書自身も、慎重な留保を置いています。継続的な損傷は検出されなかったが、それは現在の排出が空隙率を上げている可能性を否定するものではない——いまの観測方法で捉えられないほど小さい影響までは、除外できないからです。
岩はもともと自然に風化します。観測で否定できるのは、いまの手法で検出できる大きさの影響だけです。
受け止めの分かれ目
この報告書は、どちらの立場からも素直には歓迎されにくい内容になっています。
ムルジュガ・アボリジニ法人の理事で、ンガルルマの人々を代表するベリンダ・チャーンサイド氏は、伝統的所有者であり守り手として、ムルジュガを守るには文化的な知識と確かな科学の両方が必要だと述べ、今回の結果を長期的な保護のための証拠が積み上がってきた成果と位置づけています。この計画では、当事者のコミュニティが計画の設計から実測まで関わっている点が特徴です。調べられる側ではなく、調べる側にいる。
一方で、当事者の中にも異なる声があります。マルドゥドゥネラの女性であるレイリーン・クーパー氏は、産業と文化がムルジュガで共存できるという州政府の見方を強く否定しました。ムルジュガの伝統的所有者による団体セーブ・アワ・ソングラインズは、損傷を過去の排出だけに帰する説明に異議を唱えています。損傷が大きいとされる区域の中にウッドサイド社のガスプラントが立地していること、報告書は現在の影響を否定しきれておらず、過去の排出が原因であることも証明できていないこと——この2点を根拠に挙げています。
調査の進め方をめぐる論争もありました。この計画の統計責任者だったカーティン大学のエイドリアン・バッドリー名誉教授は、2025年に公開された2年目の報告書について、一般向け要約で科学的な知見の示し方に「容認できない介入」があったとして州政府に抗議し、役職を辞任しています。争点になったのは、工業施設に近い場所ほど空隙率が高いという発見の扱いと、要約から削られたグラフの線でした。なお、その発見自体は、今年の報告書でさらに広い範囲で確認されています。
解釈上の留意点
今回の報告書は、この計画の3年目にあたります。カーティン大学が西オーストラリア州水・環境規制省とムルジュガ・アボリジニ法人のために作成したもので、30人を超える研究者が参加し、国際的な専門家による独立した査読を受けています。執筆は研究者のみが行ったと明記されています。研究資金は同省から出ており、この点は著者たちが利益相反として自ら開示しています。
4年計画の最終年は来年です。大気の質と岩の表面と微生物の相互作用に焦点を当て、二酸化硫黄・二酸化窒素に加えてアンモニアとオゾンについても環境基準を仕上げる予定になっています。
また、これとは別の手法で、より少ない試料を使って研究している別のグループが、異なる結論に達していることも著者たちは記しています。この分野の見解は、まだひとつに収束していません。
報告書は、こう書いています——ムルジュガのような景観の損傷に、単一の原因があることはめったにない。何十年にもわたって複数の要因が絡み合う過程を追っている、と。
白黒はついていません。分かったのは、傷は実在すること、原因物質としては二酸化硫黄がいまのところ最も筋が通ること、そしてその曝露の大部分は過去のものらしいこと。分かっていないのは、その傷が図像の消失にどう結びつくのか、現在の排煙が検出限界の下でどう働いているのか、という部分です。調査は続きます。
出典
Murujuga Rock Art Monitoring Program: Monitoring Studies Report 2025(西オーストラリア州政府・2026年8月25日公開)
More sacred rock art is being degraded at Murujuga than previously thought(SBS NITV・2026年8月28日)


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