火星の空でも「日食」は起きます。2026年8月12日、NASAの火星探査車パーサヴィアランスが、火星の月フォボスが太陽の前を横切っていく瞬間を撮影しました。撮ったのはマストに載った主力カメラ「Mastcam-Z」。私たちが日食のときに使う日食グラスと同じように、太陽用のフィルターを掛けての撮影です。
ただしこの日食、地球のものとはだいぶ様子が違います。太陽はほとんど隠れず、しかも横切る影は丸くありません。ジャガイモのようないびつな塊が、太陽の面をすっと通り過ぎていくのです。
火星の空を横切るいびつな月
火星には月が2つあります。大きいほうがフォボス、小さいほうがダイモスです。今回主役のフォボスは、差し渡しが26キロメートルほどしかない小さな天体で、形は球ではなく、よくジャガイモにたとえられるゴツゴツした塊です。1877年にアメリカの天文学者アサフ・ホールが発見しました。
このフォボス、回り方がかなり変わっています。火星の表面からわずか6,000キロメートル足らずという至近距離を回っていて、太陽系の衛星のなかでもっとも惑星に近いところを飛んでいます。1周にかかる時間は7時間39分。火星の自転(約24時間37分)より速く回ってしまうので、火星の地面から見上げると、フォボスは西から昇って東へ沈みます。私たちの月とは逆向きです。
小さくて近い、この組み合わせが、冒頭の「変な日食」を生みます。フォボスは太陽の見かけの大きさの4分の1ほどしか覆えないため、太陽をすっぽり隠す皆既日食にはなりません。空が暗くなることもありません。しかも動きが速いので、太陽の面を通り抜けるのに1分もかかりません。写るのは、いびつな黒い影が太陽の上をするりと滑っていく、輪郭のゆがんだ金環日食(リング状に太陽が残る日食)のような光景です。カメラの前で立ち止まってくれない、せっかちな日食です。

上の図のように、地球の日食では月がほぼ太陽と同じ大きさに見えてぴったり重なるのに対し、火星ではいびつな影が太陽の一部をかすめていくだけ。同じ「日食」でも、見える景色はまるで別物です。
ちなみに、こうした光景を火星の探査車が撮るのは今回が初めてではありません。フォボスの影が地面を横切るところは1977年にバイキング1号が捉えていますし、太陽の前を横切る姿そのものは2004年に探査車オポチュニティが初めて直接撮影しました。以来、キュリオシティも、そして2021年2月に火星のジェゼロ・クレーターへ降り立ったパーサヴィアランスも、折にふれてこの観測を続けています。今ではすっかり「おなじみの絵」になりました。
影絵で決まるフォボスの現在地
ではなぜ、おなじみになった絵を、わざわざ撮り続けるのでしょうか。じつはこの観測、絵を撮ること自体が目的ではありません。
フォボスの影が太陽のどこを、いつ横切ったか。それが分かると、その瞬間にフォボスが軌道上のどこにいたかを、100メートルより良い精度で特定できるのです。Mastcam-Zの運用に関わるスペース・サイエンス・インスティテュートのマーク・レモン氏によれば、探査車はフォボスのすぐ近くにいるぶん、地球上のどんな大型望遠鏡よりも軌道をきつく縛れるのだそうです。太陽という明るくて位置のはっきりした背景が、ちょうどよい「ものさし」になるわけです。
この精度の進歩には歴史があります。火星で最初にこの種の観測が行われた頃、バイキング時代の軌道データで予測したダイモスの位置は、実際と40キロメートルもずれていました。それが積み重ねの末、今ではずれはキロメートルのレベルまで縮み、通過観測の一瞬に限れば100メートルを切る精度で現在地が押さえられるようになっています。
軌道のずれが映す火星の内部
そして、位置を精密に測り続ける本当の狙いは、フォボスそのものではなく火星の中身にあります。
フォボスほどの塊が至近距離を回っていると、火星の側にわずかな変形が生まれます。海のない火星でも、地面そのものが引っ張られてたわむ「潮汐(ちょうせき)」が起きているのです。そしてこのたわみ方は、火星の内部——特にマントルがどれくらい柔らかいか——によって変わり、その違いがフォボスの軌道のずれ方となって表に出てきます。つまり、フォボスの位置の変化を長く追いかければ、掘らずに火星の中身の硬さを探れる、というわけです。
レモン氏によれば、この測定はスピリットとオポチュニティに始まり、キュリオシティを経てパーサヴィアランスへと引き継がれ、すでに3つ目の10年に入っています。1枚の通過画像で決められるのは軌道を記述する6つの要素のうち2つだけですが、その2つのなかに「軌道上をどこまで進んだか」という、もっとも重要な1つが含まれています。だからこそ、機体が世代交代しても同じ観測を続け、質の高い測定を長い時間軸で積み上げることに意味があるのです。今回の1枚も、その長い実験に足された新しい1点でした。
ちなみにNASAの解説によれば、フォボスの軌道は少しずつ変化していて、はるか遠い将来には火星の表面へ向かっていくと考えられています。いま測っている小さなずれの先に、そんな結末が待っているというのも不思議な話です。
10月に打ち上がる日本の探査機との接点
こうして地上から詰めてきたフォボスの軌道情報は、まもなく直接役に立つ場面を迎えます。JAXAの火星衛星探査計画MMXが、2026年10月20日にH3ロケット10号機で種子島宇宙センターから打ち上げられる予定なのです(打ち上げ時刻は午前4時41分、予備期間は11月7日まで)。MMXは2027年に火星圏へ到着してフォボスに接近し、表面の砂を採取して地球へ持ち帰る計画で、接近や着陸の計画を立てるうえで、精密な軌道の知識がそのまま効いてきます。
パーサヴィアランスの観測も続いています。レモン氏によれば、今度は夜の空でフォボスを撮るキャンペーンが進行中で、全部で5〜6夜のうちすでに3夜分の撮影を終えたところ。星を背景にフォボスの位置を測ることで、太陽面通過だけでは決めきれない軌道の要素を補う狙いです。昼は太陽を、夜は星をものさしにして、火星の空でこつこつと測量が続いています。
出典
NASA/JPLの画像リリース(2026年8月24日公開):Perseverance Captures Another Phobos Transit (PIA26811)
Universe Todayの記事(2026年8月31日、マーク・レモン氏のコメントを含む):Martian Astronomy: Percy Sees a ‘Phobos Eclipse’ From Mars
JAXAプレスリリース(2026年8月20日):H3ロケット10号機による火星衛星探査機(MMX)の打上げ


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