火星に人を送るとなると、放射線、寒さ、閉鎖環境でのメンタル——課題はいくつも挙がりますが、その一覧に「砂ぼこり」が正式に加わりつつあります。NASAは2026年に入ってから、「火星ダスト限度作業部会(Martian Dust Limit Working Group)」という専門家チームを立ち上げました。目的は、火星の砂ぼこり(ダスト)が飛行士の体にどれだけ害を及ぼしうるかを整理し、「ここまでなら吸っても許容できる」という曝露の上限を決める土台を作ることです。毒物学者から火山学者、居住施設の設計者まで、分野の違う専門家が集まって議論した結果が、このほど報告としてまとまりました。
まだ誰も踏んだことのない星の砂に、先に安全基準を用意しておく——順番としてはかなり早い動きです。なぜいま、そこまでするのか。背景には、半世紀前の月で人類がさんざん苦しめられた経験があります。
アポロ計画で判明した月の砂の厄介さ
月に降り立ったアポロの飛行士たちを悩ませたのは、実は岩でも寒さでもなく、砂でした。月の砂は隕石の衝突で砕かれたガラス質の細かい粒で、角が鋭く、触れたものすべてに張り付きます。宇宙服の生地を削り、機器を過熱させ、気密のパッキンをだめにし、船内に持ち込まれた粒は飛行士の目や喉を刺激しました。アポロ17号のハリソン・シュミット飛行士は、その症状を「花粉症のようだった」と表現しています。
つまり「地球の外の砂は思った以上に体に障る」ことは、月で経験済みなのです。ただし月の知見がそのまま使えるわけではありません。作業部会のメンバーで、コロラド大学ボルダー校のブライアン・ハイネック教授(地球科学)によれば、火星のダストの粒は月のものより丸みがあって、切りつけてくるような鋭さは控えめです。その代わり、月にはなかった化学的な厄介さを抱えています。
火星ダストに含まれる有害成分
火星のダストの中身は、探査車の分析データや火星由来の隕石から、かなり具体的に分かってきています。2025年にGeoHealth誌に出た総説論文(ハイネック教授も共著者で、筆頭は南カリフォルニア大学医学部のジャスティン・ワン氏)が、健康に関わる成分を一通り洗い出しました。
まず量が多いのがシリカ(二酸化ケイ素)で、火星ダストの重量の半分近くを占めます。シリカの細かい粒を長期間吸い続けると、珪肺(けいはい)という治らない肺の病気になることが、鉱山や石材加工の労働者の例から知られています。次に過塩素酸塩。火星の土壌に広く含まれる塩素系の化合物で、甲状腺の働きを乱したり、骨髄が血液を作れなくなる再生不良性貧血につながったりする恐れが指摘されています。さらに、火星の赤い色のもとである酸化鉄、石膏、そして微量ながらクロム・ベリリウム・ヒ素・カドミウムといった有害金属も混ざっています。
そして成分と同じくらい問題なのが、粒の細かさです。火星ダストの平均的な粒径はおよそ3マイクロメートル。人の肺は、粘液が異物を絡め取って外へ押し出す仕組みを持っていますが、これが働くのは直径5マイクロメートルより大きい粒まで。それより小さい火星ダストは防御をすり抜けて肺の奥まで届き、一部は血流に入り込むと考えられています。

作業部会が示した意外な結論
成分表だけ見れば、火星の砂ぼこりはずいぶん物騒です。ところが、作業部会に加わった専門家自身の見立ては、少し違うところにあります。
メンバーの一人、ラトガース大学のシャウナ・モリソン准教授(地球惑星科学)はSpace.comの取材にこう答えています。いま分かっている範囲では、火星ダストが「特別に、破滅的に有毒」だと心配しているわけではない。本当に問題なのは、飛行士たちが閉じた居住区で寝起きしながら、何度も外に出て、そのたびに宇宙服や機材にダストを付けて持ち帰る、という暮らし方のほうだ——と。居住区の中は乾燥しているので、持ち込まれた細かい粒は舞い上がりやすく、飛行士は何日も何週間も、吸い込めるサイズの粒に囲まれて過ごすことになります。つまり怖いのは毒の強さそのものではなく、逃げ場のない場所で曝露が積み重なっていく構図なのです。
この見方に立つと、対策の性格も変わります。モリソン氏は作業部会の一番の収穫として、火星ダストは乗員の健康と機器の両方に関わる現実の課題だが、最初から設計要件として組み込めば対処できる問題だ、という点を挙げています。方針は「まず予防」。ダストをできるだけ居住区の外にとどめ、入ってしまったら素早く取り除き、空気中の粒子を監視し続ける。吸ってしまってから薬で治すことを当てにしない設計にする、ということです。
ハイネック教授は、見落とされがちな曝露ルートも指摘しています。火星では作物を育てる構想がありますが、その土台になる火星の土にはさきほどの有害成分がそのまま含まれています。空気中のダストより、育てた作物のほうが曝露源として大きくなるかもしれない、というのです。基準づくりが「吸い込む量」だけでなく口に入るものまで視野に入れる必要がある、ということになります。
実物のダストが手元にないという弱点
ただし、この基準づくりには根本的な弱点があります。人類はまだ、火星の空気中を舞っている本物のダストを一粒も手にしていないのです。今回の作業部会も、月のダストの毒性研究、地球で作った模擬ダストの実験、そして探査車が現地で積み上げてきた化学・鉱物データを組み合わせて、安全側に倒した暫定の基準を作るしかありませんでした。報告書自身も、火星のデータと毒性研究が増えるたびに基準を見直していくべきだと明記しています。
本来なら切り札になるはずだったのが、探査車パーサヴィアランスが火星で採取済みのサンプルを地球に持ち帰る計画でした。しかし取材に答えたウィリアム・アンド・メアリー大学のジョエル・レヴァイン氏は、すでに採取されたサンプルが地球に戻ってくる見込みは残念ながら薄い、と述べています。計画の予算をめぐる混乱で、回収の道筋が立っていないためです。
一方で、別の入り口から火星の粒に手が届く可能性はあります。日本のJAXAが2026年10月19日の打ち上げを予定しているMMX(火星衛星探査計画)は、火星の衛星フォボスに降りて砂を採り、地球に持ち帰る計画です。フォボスの表面には、天体衝突で火星から巻き上げられた粒が降り積もって混ざっていると考えられており、うまくいけば「火星由来の物質」を初めて直接分析できるかもしれません。吸ってよい上限を決めるための材料は、これから少しずつ揃っていく段階です。
有毒な成分のリストがすでに並んでいるのに、専門家の結論は「対処できる」。その根拠は、毒が弱いからではなく、曝露を設計で断てるからでした。半世紀前、月の砂に不意打ちを食らった人類が、次の星では砂を先回りして迎え撃とうとしている——そんな段階の話です。
出典
Space.comの記事:Mars dust is toxic. How will future astronauts deal with it?(2026年8月5日)
火星ダストの健康影響をまとめた総説論文(GeoHealth誌、2025年、オープンアクセス):Potential Health Impacts, Treatments, and Countermeasures of Martian Dust on Future Human Space Exploration
論文についてのコロラド大学ボルダー校の発表(EurekAlert!):Martian dust could pose health risks to future astronauts


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