約258万年前から現在までを、第四紀と呼びます。新生代の最後に置かれた、いまも進行中の紀です。氷期と間氷期をくり返す激しい気候変動の時代であると同時に、もうひとつの顔があります。人類という生きものの時代、という顔です。ただしその「人類」は、長いあいだ一種ではありませんでした。
第四紀は2本に分けて書いています。この記事では人類たちの姿を、もう1本では氷期の動物たちを扱います。
30万年前のアフリカに現れた新顔
私たちホモ・サピエンスの、いま知られているかぎり最も古い化石は、モロッコのジェベル・イルード遺跡から見つかった約30万年前のものです。顔つきはすでに現代人によく似ていましたが、後頭部はまだ細長く、脳が現在のような丸い形になるのはもっと後のことでした。サピエンスは完成品としてぽんと登場したのではなく、アフリカの草原や海辺で狩りと採集をしながら、数十万年かけて少しずつ「私たち」になっていったのです。
やがてサピエンスはアフリカを出て、ユーラシアへ、海を越えてオーストラリアへ、そして氷期に陸続きになったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へと広がっていきます。行く先々でマンモスやオオツノジカのような巨獣を狩り、寒さに合わせて衣服と住まいを工夫しながら、人類として初めて、ほぼ全大陸に足跡を残しました。

地球は「人類だらけ」だった
ここで大事なのは、サピエンスが広がっていった先が、無人の土地ではなかったことです。第四紀の地球には、暮らしぶりも姿かたちも違う人類が、何種類も同時に生きていました。
ヨーロッパから中央アジアにかけて暮らしていたのが、ネアンデルタール人です。私たちより背は低いものの胸板が厚く、骨太でがっしりした体は寒冷な気候向きでした。脳の大きさはサピエンスと同等かそれ以上。石器を巧みに作り、火を使いこなし、マンモスやケナガサイのような大物を至近距離から槍で仕留める、危険と隣り合わせの狩りをしていました。死者を埋葬したとみられる形跡も残しています。
アジアの内陸には、謎めいたデニソワ人がいました。長らくシベリアの洞窟から出た指の骨や歯のかけらでしか知られていませんでしたが、2025年、中国のハルビンで見つかっていた保存のよい頭骨がデニソワ人のものと確認され、幅広い顔にがっしりしたあご、大きな脳を持つその姿がようやく見えてきたところです。チベット高原の高地にまで進出していたことも分かっており、寒さと薄い空気の土地をものともしない人類でした。
島には、さらに変わった隣人がいました。インドネシアのフローレス島に約5万年前まで生きていたホモ・フロレシエンシスは、大人でも身長1メートルほど。小さな体で石器を作り、島にすむゾウの仲間ステゴドンを狩っていたと考えられています。孤島で世代を重ねるうちに体が小型化する「島嶼化」の、人類版と見られています。フィリピンのルソン島にも、足の骨に木登り向きの原始的な特徴を残す小柄な人類、ホモ・ルゾネンシスがいました。そしてアフリカとアジアに200万年近く栄えたホモ・エレクトスの最後の集団も、第四紀の後半まで残っていました。サピエンスの歴史のほとんどの期間、地球は複数の人類が同時に暮らす惑星だったのです。

「人類が一種だけ」のほうが異常
私たちは「人類といえばホモ・サピエンスただ一種」という世界を当たり前だと思っています。しかし第四紀の全体を見わたすと、話は逆さまになります。異常なのは、いまの状態のほうなのです。
サピエンスが誕生してからの約30万年のうち、そのほとんどの期間、私たちには同時代を生きる別の人類がいました。ネアンデルタール人が姿を消したのは約4万年前。フロレシエンシスの最後の記録は約5万年前。デニソワ人がいつまで生きていたのかはまだはっきりしません。いずれにせよ、人類がサピエンス一種だけになったのは、せいぜいここ数万年のこと。数百万年におよぶ人類の進化の歴史の中で、たった一種しかいない時期というのは、ほんの直近のわずかな期間だけです。長い歴史の物差しで見れば、私たちはいま、きわめて例外的な「ひとりぼっちの時代」を生きていることになります。
そして、なぜ私たちだけが残ったのかは、じつはよく分かっていません。サピエンスが他の人類を直接滅ぼしたという証拠はなく、気候変動、資源をめぐる競争、集団の規模の違い、感染症など、さまざまな要因が候補に挙がったまま、決定打は出ていないのです。地質年代の最後を飾る絶滅の謎のひとつが、ほかならぬ人類の身内の話だというのは、なんとも皮肉な話です。

消えた隣人は、私たちの中にいる
ただし「消えた」という言い方は、半分だけ正確ではありません。古い骨からDNAを読み取る技術が進んだ結果、サピエンスとネアンデルタール人が出会い、子どもを残していたことが確かめられました。アフリカ以外にルーツを持つ現代人のゲノムには、ネアンデルタール人由来のDNAが1〜2%ほど含まれています。デニソワ人のDNAも、アジアやオセアニアの集団に受け継がれています。
つまり、かつての隣人たちは完全に絶滅したのではなく、その一部は私たちの体の中に溶け込んで残っている、ということです。チベットの人々が高地の薄い空気に強いのはデニソワ人由来の遺伝子のおかげと考えられているなど、彼らから受け継いだ遺伝子がいまも働いている例も見つかっています。数万年前に途絶えたはずの人類の痕跡を、現代人がひとりひとり持ち歩いている——第四紀の人類史は、系統樹の枝分かれというより、枝どうしが絡まり合った網のような姿をしていました。

地層に名前を刻むかどうかの議論
約1万1700年前、最後の氷期が終わって温暖な完新世が始まると、ひとり残ったサピエンスの歩みは一気に加速します。農耕が始まり、定住が進み、都市と文明が生まれました。46億年の地球史から見れば、文明の歴史はまばたきほどの長さしかありません。それでもこの短いあいだに、人類は大気の組成を変え、地表を作り変え、地層に残るほどの痕跡を刻むようになりました。

その影響の大きさから、「人類の時代」を意味する新しい地質年代——人新世(アントロポセン)——を正式に設けるべきだ、という提案が長く議論されてきました。核実験で生じた放射性物質などを目印に、20世紀半ばから新しい時代を始めようという案です。しかし2024年、地質学の国際組織はこの提案を否決しました。地質年代として区切るには時期尚早、という判断です。私たちは公式には、いまも第四紀・完新世を生きています。
もっとも、否決されたのは「年表に線を引くかどうか」であって、人類が地球を大きく変えつつあるという事実そのものではありません。30万年前にアフリカの片隅に現れた新顔の一種が、氷期を生き延び、隣人たちを見送り、ついには地質年代の区分を議論の対象にするほどの存在になった。第四紀の物語は、そういう一種の動物の話として、いまも書き続けられている途中です。
出典
境界年代は国際層序委員会(ICS)の国際年代層序表に基づいています。人類の進化の年表はスミソニアン・マガジンの解説を、他の人類との共存と交雑についてはThe Conversationの解説記事を参照しました。人新世の否決についてはNature誌のニュースとIUGS・ICSの共同声明で確認できます。


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