グリーンランド東岸に、スコルズビ湾(Scoresby Sound)という世界最大のフィヨルド系があります。氷河が削った深い入り江が枝分かれしながら、内陸へ300キロ以上も食い込んでいる場所です。この奥で海の中に何が起きているのかを、イッカク6頭が測ってきた——そんな研究が、2026年8月26日付の科学誌Science Advancesに掲載されました。
報告したのは、グリーンランド天然資源研究所やコペンハーゲン大学などの研究チーム。背中にセンサーを付けたイッカクたちが、船ではたどり着けない氷河の目の前の海を3年にわたって潜り、あわせて2,060本ぶんの観測データを持ち帰りました。人間の代わりに、そこに住んでいる動物に海を測ってもらったわけです。

船を拒む世界最大のフィヨルド系
そもそも、なぜ人間が測りに行けないのか。グリーンランド東岸の海は、厚い海氷と、氷河から崩れ落ちた氷山だらけです。ふつうの調査船では奥まで進めず、砕氷船は数が少ないうえに運用費が高く、氷河の近くでは崩落に巻き込まれる危険もあります。観測できるのは海が開く夏のあいだにほぼ限られ、それでも行ける範囲はフィヨルドの入り口付近まで。スコルズビ湾の奥は、海洋観測の地図に残された大きな空白地帯でした。
ところが、この空白地帯こそが、いま調べる必要のある場所なのです。
この海域の水は、二階建ての構造をしています。上の階は、海氷や氷床の融け水を含んだ冷たい極域の水。塩分が低いぶん軽いので、おおよそ150メートルより浅いところに浮かんでいます。その下の階には、北大西洋からやってきた、暖かくて塩辛い水が入り込んでいます。塩辛い水は重いので、深いところを流れるのです。
氷河にとって問題になるのは、下の階のほうです。グリーンランドの氷河の多くは末端が海に浸かっていて、その水中部分に暖かい水が触れると、下から融かされて氷の流出が進みます。フィヨルドの入り口には海底の尾根(浅くなった敷居のような地形)があり、深いところを流れる暖水の侵入をせき止めていることが多いのですが、尾根が深い場所では、暖水が乗り越えて奥へ入り込めます。では実際、暖かい大西洋の水はどこまで入り込んでいるのか——測りに行けないので、確かめようがありませんでした。
観測員はイッカク6頭
そこで研究チームが頼ったのが、イッカクでした。頭から長い螺旋(らせん)状の牙を伸ばした姿から「海のユニコーン」とも呼ばれるクジラの仲間で、スコルズビ湾は彼らの生息地です。1,500メートルを超える深さまで潜れるうえ、人間が近づけない氷の海を日常的に泳ぎ回っている。観測装置の運び手として、これ以上の適任はいません。
2017年8月から2020年7月にかけて、チームは6頭のイッカクに衛星送信機付きのセンサーを取り付けました。記録するのは潜水の深さ、水温、そして水の電気伝導度。海水は塩分が高いほど電気を通しやすいので、伝導度を測れば塩分の代わりになります。センサーは1日のうちいちばん深く潜った2回ぶんのデータを衛星経由で送る設定で、1頭あたり85日から332日のあいだ背中に付いたまま働き続けました。
イッカクの捕獲と装着には、地元イトコルトルミットのハンターたちが協力しています。警戒心の強いイッカクがどこに現れるかを知り尽くしているのは、この土地で暮らしてきた彼らだからです。なお、この海域でのイッカクの捕獲・装着調査は、グリーンランド自治政府の許可とコペンハーゲン大学の動物実験委員会の審査を経て行われてきたことが、同じ調査プログラムの論文に記されています。
沿岸から300キロ奥まで届いていた暖かい水
イッカクたちが持ち帰った2,060本の潜水データを、チームは船舶観測の歴史記録と突き合わせました。使ったのは、世界中の海洋観測データを集めたWorld Ocean Databaseに残る、この海域の2,200本を超えるプロファイル。古いものは1891年の記録まで遡ります。この2つのデータセットから、水温・塩分・深さの関係を表す統計モデルを組み立てたのです。
見えてきたのは、二階建ての釣り合いが崩れつつある姿でした。下の階の暖かい大西洋の水の層は厚くなり、上の階の冷たい極域の水の層は薄くなっていたのです。実際、この海域の500メートルより浅い層の水温は、1960年から2021年のあいだに年およそ0.047℃のペース——61年間で3℃近く——上がっていました。
そして暖かい水は、外海に面した沿岸から300キロも奥にある、氷河の目の前の深い盆地にまで達していました。つまり、船が入れないから分からなかったフィヨルドの最奥部でも、氷河は暖かく塩辛い水にさらされていた——それを実測データで示したのは、これが初めてです。筆頭著者のマッズ・ペーター・ハイデ=ヨーエンセン氏は「イッカクたちは、これまでほとんど測定が行われてこなかったフィヨルドの場所にいたのです」と語っています。夏に氷山の流出が多い年ほど深い層の水温と塩分が高いという対応関係も見つかっており、暖水の勢いと氷の融け方がつながっていることをうかがわせます。

上の図のように、フィヨルドの入り口の尾根を乗り越えた暖水が氷河の末端に届き、その層が厚みを増している——イッカクの潜水の線は、まさにこの二階建てを上から下まで貫いて測っていたことになります。
氷河の融解と気候モデルへの意味
暖かい水が氷河の水中部分に触れれば、氷が失われるペースを速めることにつながりえます。ただし注意したいのは、これは東グリーンランドの一部の海域を6頭のイッカクで調べた結果だという点です。グリーンランド全体の氷河がこうなっている、と一般化できる話ではありませんし、データが集められたのは2017年から2020年で、いまこの瞬間の状態を写したものでもありません。
それでも、この観測には大きな意味があります。グリーンランドの氷の融解は、海面上昇や海の循環を通じて世界の気候に影響するため、将来を予測する気候モデルの重要なパーツです。ところが肝心の「氷河の目の前の海」のデータが空白のままでは、モデルの精度にも限界がありました。共著者で数理統計が専門のスサネ・ディトレウセン氏が言うように、これまで手の届かなかった場所の実測値がモデルに入れられるようになったこと自体が、大きな前進なのです。
ちなみに、イッカクを海洋観測員にしたのはこれが世界で3例目。過去の2例もグリーンランド(西側のバフィン湾とメルビル湾)でした。氷の海の観測は、この土地の主に手伝ってもらうのがいちばん、ということなのかもしれません。
日本発の言葉「バイオロギング」
動物に小型の記録計を付けて、人間の行けない場所のデータを集めてもらう。この手法には「バイオロギング」という名前がついています。生き物(バイオ)に記録(ログ)を取らせる、という意味の造語で、実はこれ、日本で生まれた言葉です。2003年に東京で開かれた第1回の国際シンポジウム——国立極地研究所の内藤靖彦氏が中心となって開催されました——で、この分野を指す学術用語として定着しました。翌2004年には日本バイオロギング研究会も設立され、日本はいまもこの分野を引っ張る国のひとつです。
手法の起源はさらに古く、1964年にアメリカの生物学者クーイマンが、南極のアザラシの潜水を調べるためにキッチンタイマーを改造した記録計を取り付けたのが始まりとされています。以来、日本の研究者たちも南極でペンギンやアザラシに記録計を付け、動物たちの目線でしか見えない海の姿を明らかにしてきました。台所の道具から始まった工夫が、60年後にはグリーンランドの氷河の未来を占うデータを運んでいる。そう考えると、イッカクの背中のセンサーも、長い系譜の先端にあるのだと分かります。
フィヨルドの奥で何が起きているかは、ようやく測れるようになったばかりです。暖水の侵入がこの先どう進むのか、氷河の融解をどこまで速めるのかは、これからの観測にかかっています。次のデータもまた、イッカクたちが運んでくるのかもしれません。
出典
論文:Heide-Jørgensen, M. P. et al. “Narwhals document atlantification of East Greenland,” Science Advances 12(35): eadr1424(2026年8月26日公開):science.org
プレスリリース:University of Copenhagen “Narwhals help researchers uncover unique data from the deepest East Greenland fjords”(2026年8月27日):science.ku.dk
紹介記事:ScienceAlert “Scientists Put Sensors on Narwhals. They Revealed Something Troubling Beneath Greenland’s Glaciers”(2026年9月2日):sciencealert.com
参考:日本バイオロギング研究会:biologging.smoosy.atlas.jp


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