火星の谷を動かしているのは水ではなくドライアイスだった

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火星の斜面には、水が流れて削ったようにしか見えない谷があります。細い水路が上から下へ伸び、末端には扇状に土砂が広がっている。地球の山でよく見かけるガリー(雨水がえぐった小さな谷)とそっくりで、2000年に初めて報告されたときは「火星にいまも水がある証拠では」と大きな話題になりました。

ところがこの谷、形が変わり続けているのです。同じ場所を年をまたいで撮り比べると、新しい土砂が積もっていたり、流れた跡が増えていたりする。つまり過去の遺物ではなく、現在進行形で何かが動いている。それなのに火星の地表は、液体の水が長くとどまれるほど暖かくも、気圧が高くもありません。では何が谷を動かしているのか。パリ=サクレー大学宇宙天体物理学研究所(IAS)のアポリーヌ・ルクレフ氏らのチームが、この問いに分光観測で答えを出しました。結論から言うと、水ではありませんでした。

南極近くの深い穴で続く谷の変化

チームが調べたのは、火星の南極域にあるシシュフィ・カヴィ(Sisyphi Cavi)という場所です。南緯68度あたりに並ぶ深い穴の群れで、その斜面にガリーがあり、しかも今も動いていることが以前から知られていました。

ここが選ばれた理由は二つあります。ひとつは、火星のガリーがふつう見つかる緯度帯からかなり外れていて、それでも活動していること。もうひとつは、極に近いぶん、極軌道を回る探査機が頻繁に上空を通るため、季節ごとの変化を細かく追えることです。ほかの緯度のガリーでは、これほど密な時系列はなかなか手に入りません。

使ったデータは、NASAのマーズ・リコネッサンス・オービターに載る分光計CRISMと、ESAのマーズ・エクスプレスに載る分光計OMEGAの赤外線観測です。分光計というのは、地表で反射した光を波長ごとに分けて調べる装置で、物質ごとに光を吸い込む波長が決まっているため、そこにあるのが水の氷か、二酸化炭素の氷か、塩の類いかを見分けられます。

水の氷の吸収帯が出てこなかった

火星の冬、極域の地表は二酸化炭素の氷、つまりドライアイスの層に覆われます。春が来るとこれが昇華(固体から直接気体になること)して消えていき、その最終段階でガリーが動く。ここまでは以前の観測で分かっていました。もし液体の水が関わっているなら、このタイミングで水の氷の痕跡が見えるはずです。

水の氷は、波長1.5マイクロメートル付近の光をはっきり吸い込みます。チームが探したのは、まさにこの吸収帯でした。結果は、出てこない。二酸化炭素の氷の中に混ざり物として少量含まれている可能性は否定できないものの、独立した水の氷の層は検出されず、春の終わりにドライアイスが消えていく段階でも水の氷の信号は現れませんでした。

硫酸塩の弱い信号は見つかっています。塩は水があった場所にできやすいので気になるところですが、分布と量を見るかぎり、ガリーの活動と結びつく様子はなかったとのことです。液体の水が今のガリーを動かしている証拠は、ここには何ひとつない。これが第一の結論でした。

間欠泉説も時期が合わない

水でないなら、次に疑われるのは二酸化炭素の間欠泉です。火星の極域を覆う冬のドライアイスは透明で、春の日差しがその下の暗い地面まで届きます。地面が温まると、氷の底から二酸化炭素が昇華して気体になり、行き場を失って圧力が上がる。やがて氷が割れて、気体が砂や土を巻き上げながら噴き出す。これが以前から知られていた仕組みで、上空からは「ダークスポット」と呼ばれる黒い染みとして見えます。

今回の観測でも、春の前半にドライアイスが透明な状態であることが確かめられました。間欠泉が起きる条件はそろっています。ところが、時期がずれていました。黒い染みが現れるのは冬の終わりから春の初めにかけてで、春分のあたりがピークです。一方、ガリーが変化するのは春の半ばから終わりにかけて。間欠泉がおおむね静まったあとに、谷が動き出しているのです。

両者を直接つなぐ根拠は見つからない。チームはこう判断しました。ここで有力候補が二つとも消えたことになります。

気体を潤滑剤にして滑り落ちるドライアイス

残ったのが、二酸化炭素の氷の「流動化」と呼ばれる考え方です。ドライアイスの板の下で二酸化炭素が昇華するところまでは間欠泉と同じです。違うのは、その気体が割れ目から一気に噴き出すのではなく、氷の板と地面のあいだに薄く広がって、潤滑剤のはたらきをする点にあります。

エアホッケーの盤面を思い浮かべると分かりやすいです。下から吹き上がる空気の膜に乗ったパックは、わずかな力で滑っていきます。同じことが火星の斜面で起きると、動かずにいたドライアイスと土砂のかたまりが、気体の膜に浮いて坂を滑り落ちる。それが速い流れになって水路をえぐり、下に扇状の堆積物を残す。できあがる形は、水が流れた谷とほとんど区別がつきません。

論文はこの説を「流動化、あるいは雪崩のような過程で説明するほうが適切だろう」という言い方で提示しています。断定ではなく、観測と矛盾しない最有力候補、という位置づけです。

地球と同じ形でも同じ物理とは限らない

この研究が示しているのは、火星の谷を「見た目が地球の谷と同じだから、成り立ちも同じだろう」と考えてはいけない、ということです。シシュフィ・カヴィで起きている侵食には、一滴の液体の水も要りません。火星の大気が冬に凍り、春に昇華するという、火星ならではの季節のサイクルだけで谷は動く。

いくつか断っておきたい点があります。まずこの論文は査読前のプレプリントで、9月3日にarXivに公開されたばかりです。今後の審査で細部が変わる可能性があります。また、論文の題名にあるとおり扱っているのは「現在の変化」であって、ガリーそのものが最初にどうやって刻まれたかは別の問題です。過去の火星に水が流れていたかどうかについて、この研究は何も言っていません。それから、この結論はシシュフィ・カヴィという一地点についてのものです。火星のほかの場所のガリーが同じ仕組みで動いているかは、それぞれ確かめる必要があります。

生命の痕跡を探す立場からすると、「水ではなかった」という結果はやや残念に映るかもしれません。ただ、観測に合わないほうの説をきちんと消していく作業は、派手な見出しにならなくても大事なものです。日本のMMXが10月に火星圏へ向けて出発しますが、火星の「当たり前」がひとつずつ更新されていく時期に、こうした地道な結果が積み上がっているのは心強いことだと思います。

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出典

A. Leclef et al., “Properties of Seasonal Ice at Sisyphi Cavi and Implications for Current Modification of Martian Gullies”, arXiv(査読前プレプリント、2026年9月3日公開)
https://arxiv.org/abs/2609.03885

Universe Today, “What’s Carving Active Gullies on Mars? It’s Not Water”(2026年9月11日)
https://www.universetoday.com/articles/whats-carving-active-gullies-on-mars-its-not-water

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