生きた細胞のミトコンドリアから、既知のどの分子にも割り当てられない赤外線の吸収信号が見つかった。上海理工大学のBo Song氏らのチームが、そう報告しています。周波数は71テラヘルツ。チームはこれを、光と分子の振動が混ざり合った量子状態の現れだと解釈しました。
論文は2026年9月にbioRxivへ投稿されたプレプリントで、まだ査読を受けていません。しかも著者ら自身が、量子状態は直接観測したものではないと書いています。この記事では、実際に測られたものと、推定にとどまっているものを分けて見ていきます。
生きた試料だけに現れる71テラヘルツの信号
ミトコンドリアは、食べ物から取り出したエネルギーをATPという分子に詰め替える小器官です。ATPは細胞のほぼすべての活動で使われる、エネルギーの受け渡し役です。
チームが使ったのはフーリエ変換赤外分光法(FTIR)という手法でした。試料に赤外線を当て、どの周波数がどれだけ吸収されるかを調べます。分子の中の結合はそれぞれ決まった周波数で振動しているので、吸収が出る位置を見れば、試料の中に何があるかの手がかりになります。
調べた試料は3種類あります。ヒトの培養細胞株、マウスの腎臓・肝臓・心臓・骨格筋の組織、そして細胞から取り出したミトコンドリアです。そのどれにも、71テラヘルツ(1秒間に71兆回の振動)の位置に説明のつかない信号が出ました。
ところが、試料を乾燥させてすりつぶすと、この信号は消えました。含まれている成分はほぼ同じでも、形が壊れると出なくなる。つまり特定の分子の信号ではなく、ミトコンドリアの構造そのものに由来する信号らしい、というのが研究の出発点です。
なお「テラヘルツ」と聞くと、電波と光の中間にあたるテラヘルツ波(おおよそ0.1〜10テラヘルツ)が浮かびますが、71テラヘルツはそれよりずっと高く、波長にすると約4.2マイクロメートルの中赤外線です。周波数で表記しているだけで、ごく普通の赤外分光の範囲の話です。
光と分子振動が混ざる「ポラリトン」という解釈
チームが注目したのは、ミトコンドリアの内膜が細かく折りたたまれた「クリステ」というひだでした。ここには脂質がぎっしり詰まっています。脂質の尾の部分には炭素と水素の結合(CH2)が長く並んでいて、この結合は約87テラヘルツで伸び縮みします。
チームのモデルはこうです。ミトコンドリアの中にある光子(光の粒)が、大量のCH2結合の集団的な振動と強く結びつく。すると、光でも分子振動でもない、両方が混ざった状態ができる。これがポラリトンです。光と物質の振動の重ね合わせとして記述され、とびとびのエネルギー準位を持つので、量子的な状態ということになります。人工的に作った微小な光の共振器の中では、実験で確かめられている現象です。
この結びつきが起こると、もとの87テラヘルツの振動は上下2つの準位に分かれます。モデルの計算では、下が71テラヘルツ付近、上が103テラヘルツ付近。下の値が、生きた試料に出ていた謎の信号と一致しました。
もうひとつ、活動中のミトコンドリアの平均的な長さが、その内部を進む87テラヘルツの光の波長と合っていたことも根拠に挙げられています。ミトコンドリア自体が、光を短い時間だけ閉じ込める小さな箱として働いているのではないか、という見立てです。

赤外光の照射とATP産生の変化
では、その状態は細胞の中で何かの役に立っているのか。チームはヒト由来の培養細胞(HEK-293T)に、弱い中赤外光を10分間当てる実験をしました。
謎の信号と同じ71テラヘルツの光を当てると、ATPの産生は10.3%増えました。CH2の振動にあたる87テラヘルツでは10.1%の増加です。一方、どちらとも関係のない53.7テラヘルツを対照として当てた場合は、意味のある変化は出ませんでした。各群の試料数は8です。
赤外線で単に温まっただけなら、周波数によらず同じ変化が出るはずです。特定の周波数でだけ増えたことを、チームは量子状態がATP産生に関わっている傍証と見ています。
仕組みについてSong氏が考えているのは、TCA回路(クエン酸回路)とのつながりです。この回路はATPづくりにエネルギーを供給する反応の連なりで、途中で二酸化炭素が出ます。71テラヘルツは二酸化炭素の振動と重なる周波数です。またチームは2023年の理論研究で、この回路の一部の反応が87テラヘルツの光子を放出しうると提案していました。ミトコンドリアの量子状態がTCA回路の効率を高めているのかもしれない、というのがSong氏の説明です。ただし、この仕組みは実験で示されたものではありません。
直接は観測されていない量子状態
この研究でいちばん押さえておきたいのは、ポラリトンそのものは一度も観測されていないという点です。測られたのは71テラヘルツの吸収と、ATPの量。その2つのあいだをつないでいるのはモデルで、著者ら自身が、観測結果とモデルの一致から推定したものだと明記しています。
しかも、モデルが予言した2つの準位のうち、照合できたのは片方だけです。上側の103テラヘルツは、水やほかの生体分子の吸収と重なってしまい、見分けがつきません。振動が2つに分かれたことの証拠としては、上下が対になって見えるのが本来の形です。片方だけの一致では、別の原因で71テラヘルツに吸収が出ている可能性が残ります。
ここからは筆者の補足です。二酸化炭素の赤外吸収は約70テラヘルツにあり、71テラヘルツのすぐ隣です。チームはこの近さを、量子状態が二酸化炭素を介して代謝に関わる根拠として扱っていますが、逆向きの読み方もできます。生きた試料は二酸化炭素を出し、乾燥させてすりつぶした試料は出しません。プレプリントがこの可能性をどう退けているのかは、今回は本文を確認できませんでした。ScienceAlertの記事も、ほかの説明を排除する作業がまだ必要だと指摘しています。
ATPの実験にも限界があります。使われたのは1種類の培養細胞株だけで、各群8試料。シャーレの上の細胞で1割増えたことは、動物やヒトの体の中で同じ仕組みが代謝を左右していることを意味しません。加熱の影響についても、光はごく弱く、対照の周波数で変化が出なかったとはいえ、懸念としては残ります。
Song氏自身は、87テラヘルツの光がかかわるエネルギーの移動を時間を追って測れていないことを、いちばんの限界に挙げています。
現時点で言えることと言えないこと
整理すると、報告されている事実は2つです。構造を保った生体試料にだけ現れる71テラヘルツの信号が、細胞・組織・単離したミトコンドリアに共通して見えたこと。そして、1種類の培養細胞で、特定の周波数の赤外光を当てるとATPが約1割増えたこと。
そこから先、つまり「ミトコンドリアの中に量子状態がある」「それがエネルギーづくりに関わっている」は、いまのところ仮説です。確かめるには、別の研究室が同じ信号を再現すること、量子的なふるまいを直接調べること、そしてSong氏が挙げたエネルギー移動の測定が必要になります。
生き物のなかの量子効果は、光合成や渡り鳥の磁気感覚などで長く議論されてきましたが、決着のついた例は多くありません。今回の報告は、具体的な周波数と数字、そして著者自身による留保がそろっているぶん、検証しやすい形の仮説になっています。査読と追試でどこまで残るかは、これからわかることです。
出典
Yang et al., bioRxiv(2026)DOI: 10.64898/2026.09.10.750628(査読前のプレプリント)
Song氏らによる2023年の理論研究(Neuroscience Bulletin)DOI: 10.1007/s12264-023-01044-7


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