アメリカの乳牛でH5N1鳥インフルエンザが広がったとき、現場でまず問題になったのは、症状が「鳥インフルエンザらしくなかった」ことでした。ほかの哺乳類なら肺をやられるはずのウイルスが、牛では肺をほとんど素通りして、乳房を激しく傷めていたのです。その理由を説明する研究が、2026年6月に発表されました。ウイルスが取りつくための受け皿が、牛の気道にはほとんどなく、乳腺にだけ大量に並んでいた、というものです。
診断を遅らせた見慣れない症状
2024年3月、アメリカ・テキサス州北部のパンハンドル地域で、乳牛が次々と体調を崩しました。出てくる乳は濃く、黄色みを帯びてどろりとしている。調べてみると、乳房の組織が壊れていく重い乳房炎(乳腺の炎症)が起きていました。
乳房炎は、乳を出す家畜ではおなじみの病気です。原因はたいてい細菌なので、獣医たちは順当に細菌を探しました。ところが乳や血清、組織をさらに詳しく調べていくと、出てきたのは高病原性鳥インフルエンザのH5N1ウイルスでした。研究をまとめたピッツバーグ大学公衆衛生大学院のSuresh Kuchipudi氏は、犯人が鳥インフルエンザだと分かったとき業界全体が完全に不意を突かれた、牛がH5N1の宿主になりうるとは考えてもみなかった、と振り返っています。
正体が判明するまでの数週間、ウイルスは牛の群れから群れへと移り、周囲の環境も汚染していきました。感染した牛は乳の中に大量のウイルスを出します。搾乳にたずさわる人の職業上のリスクに加え、加熱していない乳をペットに与える習慣があることから、猫が死んだ例も報告されています。
ウイルスが取りつく受け皿の正体
インフルエンザウイルスが細胞に入り込むには、まず細胞の表面につかまる必要があります。そのつかまる先が、細胞から生えている糖鎖(とうさ=糖がいくつもつながった鎖状の分子)の、先端にある「シアル酸」です。ウイルス側の突起とシアル酸の形が合えば取りつけますが、合わなければ素通りする。鍵と鍵穴の関係になっています。
どの動物のどの臓器が感染しやすいかは、この受け皿がどこにどれだけ並んでいるかでおおよそ決まります。Kuchipudi氏は、この受容体(じゅようたい=ウイルスなどがくっつく細胞側の受け口)の研究を長く続けてきた人です。
ところが、他の研究グループによる初期の調査では、牛の鼻や気管、肺にもインフルエンザ用の受け皿があるように見えていました。それなのに牛は呼吸器の症状をほとんど起こさない。まだ説明されていない何かがある——そう考えたチームは、より細かく見分けられる方法に切り替えました。
気道になく乳腺にある糖鎖
使われたのは「グライコミクス」と呼ばれる手法です。質量分析で、組織にある糖鎖をひとつ残らず洗い出して分類していきます。従来の染色では「シアル酸があるかどうか」までしか見分けられませんでしたが、この方法なら、そのシアル酸がどんな構造の糖鎖の先についているのかまで区別できます。チームは、この技術を専門とするハーバード大学医学大学院のLauren E. Pepi氏と組みました。
その結果、シアル酸なら何でもよいわけではないことが分かりました。H5N1が実際に結合できたのは、「N型結合」と呼ばれるつなぎ方をした糖鎖の先にあるシアル酸だけ。糖鎖はタンパク質に取り付いていますが、その取り付き方には何通りかあり、N型結合とO型結合がその代表です。ウイルスが使えたのは前者だけでした。
そして牛の場合、このN型結合のシアル酸は気道の組織にはほぼ存在せず、乳房にはあふれるほどありました。実際に牛の気管を調べるとO型結合のシアル酸しか見つからず、H5の結合も検出できていません。Kuchipudi氏は、乳房はウイルスにとって完璧な繁殖場所になっていた、と表現しています。
つまり、ウイルスが牛の肺を避けて乳房を選んだのではなく、牛の体では乳房にしかつかまる場所がなかったのです。

複数の手法による裏づけ
受け皿の分布を調べただけでは、実際にウイルスがそこに取りつくかどうかまでは言えません。チームは段階を踏んで確かめています。
まず、H5N1の外側の殻だけを持ち、増えるための遺伝子は持たない「疑似ウイルス」を使いました。これなら細胞にくっつくところまでは本物と同じように起き、そこから先には進みません。高解像度の電子顕微鏡で見ると、疑似ウイルスは牛の呼吸器の組織には付かず、乳腺の内側を覆う上皮細胞にはしっかり張り付いていました。

次に、本物のウイルスでも同じことが起きるかを確かめました。使われたのは2024年にテキサス州の乳牛から分離された株で、外に漏らさないための高い封じ込め設備(バイオセーフティーレベル3)の中で実験されています。結果は疑似ウイルスと同じで、乳腺の上皮には強く結合し、気管の内側の表面にはほとんど結合しませんでした。
あわせて、系統による違いも見えています。いま世界で流行しているclade 2.3.4.4bという系統のH5は、古いclade 2.2のH5よりも、牛の乳腺の糖鎖に強く結合しました。同じH5N1でも、系統によって牛への取りつきやすさが違うということです。
次の飛び火を先読みするための枠組み
この研究のもうひとつの成果は、方法そのものにあります。組織の糖鎖を細かく調べれば、ある動物のある臓器がH5N1に感染しうるかどうかを、実際に流行が起きる前に見積もれる可能性があるからです。
Kuchipudi氏は、複数の動物種とその体内の複数の組織をあらかじめ調べておくことで、その動物では呼吸器の症状が出るのか、牛のように乳房炎だけなのか、あるいは猫で確認されたような神経症状が出るのかまで予想できるようになるかもしれない、と述べています。同じ不意打ちを繰り返さずに済むかもしれない、という見通しです。
診断がつかない数週間は、そのまま対策を打てない数週間になります。次にH5N1が別の動物へ渡ったとき、症状の見た目が変わっていても早く見当をつけられれば、その空白を短くできます。H5N1は現在、世界で100種を超える鳥類・哺乳類での感染が確認されており、飛び火の機会は少なくありません。
牛乳の安全性と日本国内の状況
牛乳については、加熱殺菌がウイルスを不活化することが確認されています。Kuchipudi氏も殺菌処理が有効であることに触れ、加熱していない生乳を避ける大切さを強調しています。日本で市販されている牛乳は加熱殺菌されたものです。
日本の乳牛では、これまでH5N1の感染は報告されていません。農林水産省は、2003年以降アメリカから生きた牛を輸入していないため、感染した牛を通じてウイルスが国内に持ち込まれることはない、としています。2026年1月にはオランダの農場で乳牛から抗体が検出されましたが(ウイルス自体は検出されていません)、オランダからも生きた牛は輸入できません。一方、ニワトリなどの家きんでの高病原性鳥インフルエンザは日本でも毎シーズン発生しており、そちらの警戒は続いています。
解釈上の留意点
今回の研究が示したのは、あくまで「ウイルスが組織に取りつけるかどうか」という入口の部分です。感染が成立して広がるまでには、細胞の中で増えられるか、免疫をかいくぐれるかなど、ほかの条件もかかわります。受け皿の分布だけで感染するかどうかがすべて決まるわけではありません。
また、これはヒトへの感染しやすさが変わったという話でもありません。牛の乳腺という、これまで注目されてこなかった場所にウイルスの入口があった、という研究です。人での感染例は、これまでのところ酪農場や養鶏場の作業者など動物と接触のある人に限られており、持続的なヒトからヒトへの感染は確認されていません。
予測の枠組みとしての実力も、これから他の動物種で試されていく段階です。どこまで当てられるのかは、今後の検証を待つことになります。
出典
Srinivas, S. et al. “Receptor basis of unusual tissue tropism of avian influenza H5N1 clade 2.3.4.4b virus in cattle.” Science Advances, 2026年6月19日.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aea2068
ピッツバーグ大学/UPMC プレスリリース「How H5N1 Bird Flu Hid Unrecognized for Weeks in Dairy Cattle」(2026年6月19日)
https://www.upmc.com/media/news/061926-h5n1-bird-flu
農林水産省「鳥インフルエンザに関する情報」
https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/tori/
アメリカ疾病予防管理センター(CDC)「A(H5) Bird Flu: Current Situation」
https://www.cdc.gov/bird-flu/situation-summary/index.html


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