物質を光で調べる「分光計」は、化学の分析には欠かせない道具です。ただ、精度の高いものは机を占領するほど大きく、値段も張るのがふつうでした。その分光計を、数センチ角・約10ドル(日本円で1,500円ほど)というサイズと価格まで小さくしながら、据え置きの本格機に迫る精度を出した——という研究が発表されました。ケンブリッジ大学とスタートアップGlitterinTechのチームが、Nature Photonicsに報告したものです。
鍵になったのは「畳み込み(たたみこみ)」という数学の考え方を、計算ではなく光そのものに適用したことでした。
分光計につきまとうサイズの壁
分光計は、光が物質とどうやりとりするかを読み取る装置です。物質はそれぞれ、決まった波長の光を吸ったり反射したりします。その「光の指紋」を測れば、目の前にあるものが何なのか、どんな成分がどれくらい含まれているのかがわかる、という理屈です。医療、製造、環境モニタリング、研究と、使われる場面はとても広いものです。
ところが、この装置は小さくしようとすると性能が落ちる、という難点を抱えてきました。従来型の多くは、プリズムや回折格子で光を虹のように空間へ広げて波長ごとに分けます。この「広げる」ためには、それなりの光の通り道(=長さ)が要ります。だから精度を保とうとすると装置が大きくなり、無理に小さくすると測れる波長の幅や解像度、正確さが犠牲になる。小型機がおおまかなピーク検出止まりで、きちんとした計量には物足りなかったのは、このトレードオフのせいでした。
畳み込みを光の段階で行う設計
今回のチームは、この壁を「光を空間に広げる」という前提そのものを外すことで乗り越えました。使ったのが畳み込み定理という数学の性質です。ざっくり言うと、二つの信号を掛け合わせる「畳み込み」という操作は、周波数の世界に持ち込むと単純な掛け算に化ける、という定理です。研究チームは、この畳み込みをコンピューターでの後処理ではなく、入ってくる光の側で直接やってしまう構成を組みました。
「畳み込み」というと画像認識のAIを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、ここでの畳み込みはその名前のもとになった数学の演算そのもので、AIの学習に頼っているわけではありません。
具体的には、波長に対して周期的に応答する光学部品——バランスを崩したマッハ・ツェンダー干渉計と、マイクロリング共振器——を並べています。これらを比例させて少しずつずらしていくと、装置全体の「光への反応の仕方」が規則正しくスライドします。そうやって集めた信号を高速フーリエ変換(FFT)にかければ、元のスペクトルを正確に復元できる、という流れです。装置は窒化ケイ素(シリコンナイトライド)の光集積プラットフォーム上に作られ、制御用の電子回路と一体にまとめられています。測定できる範囲は近赤外の1200〜1700ナノメートルで、データの取得から処理までは1秒かかりません。
この設計の面白いところは、周期的な部品を足していくだけで測れる波長の幅をほぼ際限なく広げられ、解像度も部品を増やせば大きく上げられる点です。ハードの土台を作り替えなくても、スケールできる余地が残されています。

コーヒーから血糖値までの測定実証
チームは、この分光計をいくつもの実地に近い課題で試しています。プラスチック、医薬品、コーヒー、小麦粉、紅茶といった固体の識別では、種類や産地、グレードの違いを100%の正解率で見分けました。水溶液や有機溶液の濃度を測る課題では、0.01%ほどという精度を出し、市販の据え置き型分光計を上回ったとしています。
とりわけ目を引くのが、体の状態を非侵襲で——つまり針を刺したりせずに——読み取る実証です。肌の水分量に加え、血中のアルコール・乳酸・グルコース(血糖)といった、皮膚の下にある低濃度の生体物質まで測ってみせました。ひとりの被験者について、日々の血糖値を長期間追いかけることにも成功しています。装置はマイナス20度から80度までの温度で安定して動いたといい、これは小型分光計としては珍しく、ウェアラブルや屋外での利用を見据えると重要な点です。
プロジェクトを率いたQixiang Cheng准教授は、こうした医療応用の実証がとりわけ興味深いとしたうえで、この研究が際立つのは実験室での性能だけでなく「実装のしやすさ」にあると述べています。数学の着想を、温度の振れる現実の環境でも安定して動く、きちんとパッケージ化されたシステムにまで落とし込めたことが、実用への扉を開くというわけです。
暮らしに溶け込むセンサー像
研究チームは、この方式が「組み込み型の分光」を大きく前進させうると考えています。安くて正確な装置が実現すれば、製造現場のスマートセンサー、食品の品質をその場で確かめる用途、大規模な環境分析などに使えます。医療の側では、水分状態のチェック、酔いの検知、フィットネスの記録、そして糖尿病の人の持続的な血糖モニタリングといった応用が視野に入ります。
「分光を、温度や動きのセンサーと同じくらいありふれたものにしたい」とCheng准教授は語っています。つまり、質の高いスペクトル情報を実験室に閉じ込めておくのではなく、日常の機器へそのまま埋め込んでしまおう、という発想です。方式が単純で拡張でき、量産にも向くこと——それが、大きな据え置き機に匹敵する精度と両立している点が、この研究の芯にあります。
実用化に向けた留意点
読むときに切り分けておきたいのは、これが「原理の実証」の段階だということです。血糖の長期追跡は被験者ひとりでの結果で、そのまま誰の腕でも同じ精度で測れる医療機器になった、という話ではありません。約10ドルという価格や0.01%という精度も、研究チームがこの試作システムで示した値です。実際の製品としてウェアラブルに載るには、多くの人での検証や、量産・認証といった段階がこれから必要になります。
とはいえ、小型化のたびに精度を手放してきた分光計に対して、数学の土台から作り直すことで別の道を示した、という意味は小さくありません。すごい成果ほど淡々と受け止めておくのがちょうどよさそうです。


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