量子力学に虚数は要らないのか——「不要」と「必要」が両立する理由

物理学
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量子力学の式には、虚数(きょすう)が当たり前のように顔を出します。2乗すると-1になるという、あの妙な数です。これは自然がそう要求しているのか、それとも人間が計算を楽にするために持ち込んだ道具にすぎないのか。ドイツのハインリヒ・ハイネ大学デュッセルドルフ(HHU)とドイツ航空宇宙センター(DLR)のチームが、この問いに一つの答えを出し、『Physical Review Letters』に発表しました。虚数を一切使わない量子力学を組み立て、標準の量子力学とまったく同じ予測を出せることを示した、という内容です。

ただし、この結果は「虚数は要らないと証明された」と読むと足を踏み外します。何を前提に置くかで答えが変わる、というのがこの話のいちばん面白いところです。

虚数が量子力学に居座る理由

虚数は、実在する数として数えたり測ったりできるものではありません。リンゴを-1個は持てないし、その平方根となればなおさらです。だから「imaginary(想像上の)」と呼ばれます。ただ、実数と組み合わせて「3 + 4i」のような複素数にすると、これがめっぽう役に立つ。波の振る舞いや交流電流を書き表すのに、複素数は電気工学でも物理学でも標準的に使われています。

量子力学の場合は、もっと踏み込んだ使われ方をしています。粒子の状態を表す「波動関数」という道具そのものが複素数でできていて、シュレディンガー方程式にも虚数単位 i が式の骨組みとして入っている。ここが電磁気学などとは違うところで、「便利だから使っている」のか「なくては成り立たない」のかが、1920年代から100年近く議論の的になってきました。

「虚数は必要」とされた2021年の結論

この議論に決着がついたと思われた時期があります。2021年、Marc-Olivier Renou らのチームが『Nature』で、実数だけで組んだ量子力学は、複数の粒子が絡む特定の実験で標準の量子力学と違う予測を出すと示しました。しかも、その違いを実際に測れる形の実験(ベルテストの一種)まで設計してみせた。翌2022年には実際に複数のグループが実験を行い、結果は標準の量子力学と一致しました。実数版の量子力学は、実験によって否定された——そう受け取られたわけです。

ただし、この結論には条件が付いていました。「テンソル積」という数学的な規則を前提にする、という条件です。2つの粒子をひとつの系としてまとめて記述したいとき、その状態をどう合成するかを決める規則で、量子力学の教科書ならどれにも載っている標準的なやり方です。上の画像のように複数の粒子が同時に絡む状況を扱うときは、必ずこの合成規則が効いてきます。

2021年の結果が言っていたのは、正確にはこういうことでした——テンソル積という合成規則を守るかぎり、実数だけの量子力学は実験で否定できる。

前提を入れ替えるという発想

今回のチームが目を付けたのが、まさにこの前提でした。テンソル積は、系を合成する唯一の方法なのか。

そこで彼らは、数学的な公理から出発するのをやめて、物理的に筋の通った原理から出発することにしました。使ったのは「ある系に対して行った操作は、別に用意された系に影響を与えてはならない」という要請です。独立に準備された2つの系は独立に振る舞うべきだ、という、言われてみれば当たり前の話です。この原理から合成の規則を導き直すと、テンソル積とは別のルールが出てきます。

そしてその新しいルールのもとでは、実数だけを使った量子力学が組み立てられる。しかもそれは、多粒子が絡む実験を含めて、標準の量子力学のすべての予測を再現する。ブルース教授は、二つの枠組みはどんな実験に対しても同一の予測を与える、と述べています。つまり、どんな実験をやっても両者を区別できないということです。

旗を付けて位相を追う

実数だけでどうやって虚数の仕事を肩代わりさせたのか。仕組みの核心は、意外なほど素朴です。

そもそも複素数「3 + 4i」は、実数を2つ(3と4)並べたものにすぎません。i は「こっちが虚部ですよ」という目印にすぎない、と筆頭著者のバリオス・イタ氏は説明しています。だったら、その2つの実数を別々に帳簿に記録していけばいい。

問題は、粒子を合成したときに起きます。標準の量子力学では、ひとつの粒子の状態に i を掛けても、その粒子だけを見ているかぎり観測にはかかりません。ところが2つの粒子を合成すると、この i は片方からもう片方へ移り渡ることができる。位相キックバックと呼ばれる現象で、テンソル積を使えば自動的に組み込まれます。過去の実数版の試みがつまずいたのは、まさにこの「i の受け渡し」を再現できなかったからでした。

チームの解決策は、それぞれの粒子に小さな「旗(フラグ)」を持たせることでした。虚部が担っていた情報を、この旗のほうに記録させる。そのうえで、紙の上では違って見える旗の組み合わせのいくつかを、物理的には同じ状態として扱うことにしました。この「まとめる」操作を入れたことで、実数版はようやく標準の量子力学と足並みをそろえられるようになった——3つ以上の粒子がもつれた場合まで含めて、です。

「便利さの問題」という位置づけ

研究チームの主張は、はっきりしています。実数版の量子力学は実験で否定できない。したがって、複素数を使うかどうかは便利さの問題である。

バリオス・イタ氏は、これで量子力学は他の物理理論と同じ立場に並んだ、と言います。電磁気学も方程式の中核に複素数を使いますが、誰もそれを「電磁気学の本質」だとは思っていません。式を書きやすくする道具として使っているだけです。量子力学もそちら側だった、というのが今回の見立てです。

この結果は、米物理学会の解説誌『Physics』でもハイライトとして取り上げられました。同誌の解説は、今回の仕事の意義を「特定の構成方法そのものより、独立した量子系をどう合成すべきかを決める物理原理のほうへ議論の焦点を移した点にある」と位置づけています。抽象的な数学の公理をめぐる水掛け論から、物理的な原理をめぐる議論へ——という整理です。

解釈上の留意点

いくつか、押さえておきたい点があります。

まず、これは実験ではなく理論の仕事です。新しい測定をしたわけでも、装置を作ったわけでもありません。実験予測は何ひとつ変わらないので、量子コンピューターなどの技術に直接つながる話でもない、と著者自身が明言しています。

次に、扱えるのは量子状態の数が有限の系に限られます。現実の物理では無限次元の系がふつうに出てくるので、そこへの拡張はこれからの課題です。

そして何より、2021年の「虚数は必要」と今回の「虚数は不要」は、正面から矛盾しているわけではありません。テンソル積を前提にすれば前者が成り立ち、別の合成規則を採れば後者が成り立つ。争点は、どちらの前提を物理的に自然と見なすかという一点にあります。テンソル積は量子情報の理解がまるごと乗っている土台なので、それを手放すことの代償は小さくない、という見方もあります。

実際、議論はまだ続いています。今回の構成は結局のところ複素構造を隠し持っているだけではないか、という指摘や、局所性を要求すると複素数が必然的に出てくるとする別の論文も出ています。共著者のトゥルシェチキン氏自身、実数を使って複素数を「シミュレートしている」のだと表現しています。100年の論争にきれいな幕が引かれた、というより、論争の焦点がひとつ動いた、と受け取るのがちょうどよさそうです。

なお、この論文は査読を経て『Physical Review Letters』に掲載されています(プレプリント自体は2025年3月にarXivで公開済み)。

出典・もっと知りたい人へ

元論文:Pedro Barrios Hita, Anton Trushechkin, Hermann Kampermann, Michael Epping, Dagmar Bruß「Quantum Mechanics Based on Real Numbers: A Consistent Description」Physical Review Letters 136, 240202(2026年6月18日)DOI: 10.1103/4k13-sdjh

全文が無料で読めるプレプリント版:arXiv:2503.17307

発表元の解説(HHU):Physics: Publication in Physical Review(英語)

専門家による位置づけ(米物理学会『Physics』誌のハイライト):A New Perspective on Real-Valued Quantum Theory(英語)

筆頭著者へのインタビューを含む解説記事:Live Science の記事(英語)

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