車の運転を習いはじめたころは、ハンドルもミラーも足元も、全部に気を配るだけで精いっぱいだったはずです。ところが何年か乗ると、同じ運転をしながら会話をしたり、ラジオを聞いたり、頭の中で別の考えごとをしたりできるようになる。慣れとは何が起きることなのか——その正体が、人間の脳を訓練前と訓練後で撮り比べる、という力技の研究で見えてきました。
米ジョージタウン大学のMaximilian Riesenhuber教授らのチームは、参加者に3万回を超える分類課題をこなしてもらい、その前後で脳を計測しました。すると、最初は前頭前野(ぜんとうぜんや:計画や判断など、意識的な思考を担う領域)が引き受けていた作業が、訓練を重ねるうちに側頭葉の視覚領域へ移っていた。しかも新しい担当領域は、前頭前野を通さずに運動の出口へ直接つながっていたのです。論文は2026年5月に学術誌『Journal of Cognitive Neuroscience』に掲載されました(査読済み)。
前頭前野というボトルネック
「人間はマルチタスクできない」という話を聞いたことがあるかもしれません。心理学では長らく、同時にこなしているように見えても、実際には注意をすばやく切り替えているだけだ、と考えられてきました。
その根拠のひとつが、前頭前野です。この領域は判断や意思決定を担いますが、要求の高い作業は基本的に一度にひとつしか扱えません。処理が全部ここを通るなら、そこで渋滞が起きる。研究者はこれを「前頭のボトルネック(frontal bottleneck)」と呼んできました。二つの作業を同時にやろうとすると片方が遅れるのは、この一本道のせいだ、という説明です。
ただし、この見立ては主に「学びはじめて数時間」の実験から作られたものでした。現実の熟練は、数か月・数年かけて積み上がります。長い訓練のあとでも、処理は同じ道を通り続けているのか。そこはほとんど調べられていませんでした。
訓練で生まれた新しい回路
研究チームが参加者に課したのは、少しずつ形を変えた車の画像を2つのグループに仕分ける課題です。見た目がよく似ていて、細かな違いを見分ける必要があります。
学習の初期段階でこの課題をやっているとき、活発に働いていたのは前頭前野でした。ここまでは予想どおりです。

ところが数週間の訓練を終えたあと、同じ課題をやっている脳を撮ると、様子が変わっていました。分類の処理は、側頭葉の視覚領域(腹側後頭側頭皮質)で起きるようになっていたのです。ここは、物の形を見分けたり記憶したりすることに関わる場所です。
興味深いのは、この領域が最初から「車の分類係」だったわけではない点です。訓練前は単に形の違いに反応していただけで、カテゴリーの区別には反応していませんでした。それが訓練後には、カテゴリーに応じて反応する性質を新しく獲得していた。第一著者のPatrick Cox氏(現・リーハイ大学)は、鳥や車、ポケモンの熟練者の側頭葉に同じような領域があることは以前から知られていたが、これまでの研究は「すでに達人になった人」を見ていただけで、訓練の前後を追った点が今回の強みだ、と説明しています。

さらに、この新しい領域は前頭前野とのつながりを弱め、代わりに運動の出力を担う領域とのつながりを強めていました。判断が前頭前野を経由せず、見た瞬間に手が動く回路ができあがっていた、ということです。そして前頭前野との結合が弱まった人ほど、車の分類をやりながら別の課題をこなす成績がよかった。つまり、渋滞していた一本道を迂回する道が、練習によって物理的に敷かれていた——それが今回の中身です。
3万回の分類と2つの脳計測
参加者はスマートフォンのアプリを使い、ゲーム感覚でこの分類をひたすら繰り返しました。回数にして3万回以上、期間は5〜10週間。最初の学習(1〜2週間で約4時間)のあと、さらに4〜8週間かけて約16時間ぶんの訓練を積み増しています。
脳の計測には、fMRI(血流の変化から活動部位を見る)とEEG(脳波で反応の速さを見る)の両方を使いました。場所と時間、それぞれ得意な計測を組み合わせ、どちらでも同じ結論が出ることを確かめています。訓練の前と後で同じ人を測る縦断(じゅうだん)デザインなので、「もともとそういう脳の人が達人になった」のではなく、訓練によって変わった、と言える設計です。
熟練・習慣・AIへの示唆
研究チームがまず挙げるのは、専門家の「直感」です。放射線科医がレントゲン写真を見て、腫瘤が良性か悪性かをほとんど考え込まずに見分けられるのは、長年の訓練でこの回路ができているからではないか——Cox氏はそう指摘しています。熟練者の判断の速さは、努力の量というより、処理の通り道が違うことの表れかもしれません。
裏返すと、少し怖い話にもなります。学習した行動が意識の届きにくい回路に移るということは、やめたい癖ほど意志の力で止めにくい、ということでもあります。Riesenhuber氏は、「別のことを考えなさい」というアドバイスがあまり効かない理由がこれで説明できる、と述べています。その行動は、そもそも意識的な制御の下で走っていないからです。
もうひとつ、AI開発への示唆もあります。人間は覚えたことを土台にして次を学べますが、いまのAIモデルはそれが苦手です。学んだ技能を別の場所へ移して前頭前野を空ける仕組みは、人間が学び続けられる理由の一端かもしれない、と研究チームは見ています。
解釈上の留意点
この研究が示したのは、あくまで「車の画像を分類する」という限定的な視覚課題での話です。楽器でも語学でも同じことが起きる、とまでは確かめられていません。
二重課題の成績がよくなった点も、前頭前野との結合が弱まった度合いとの相関として報告されているもので、「結合が下がったから成績が上がった」と因果を言い切れる結果ではありません。個人差もあり、なぜ差が出るのかはまだ分かっていません。
そして、いちばん誤解されやすいところ。「訓練すれば何でも同時にできるようになる」わけではありません。Cox氏は、運転中のスマホ操作は訓練しても安全にはならないとはっきり言っています。理由は単純で、画面を見るために道路から目を離すからです。同時にこなせるかどうかは、二つの作業がまったく別の回路で走れるか——目や手といった同じ資源を奪い合わないか——で決まります。歩きながらガムを噛むのは平気でも、運転しながらの「ながらスマホ」がだめなのは、その線引きの問題だ、というわけです。
研究チームは次の課題として、学習が脳の別の場所へ移るときに何が引き金になっているのか、そして同時処理の限界がどこにあるのかを調べたいとしています。
出典・もっと知りたい人へ
元論文(査読済み):Cox PH, Scholl CA, Laws ML, Jaimes NE, Jiang X, Riesenhuber M. “Extensive Experience Remodels Neural Task Circuitry to Escape the Frontal Bottleneck and Increase Automaticity of Categorization.” Journal of Cognitive Neuroscience(2026年5月20日オンライン公開)DOI: 10.1162/JOCN.a.2618 論文ページを開く
大学プレスリリース(英語):Georgetown researchers show how brain rewires itself to enable true multitasking(ジョージタウン大学医学部)
やさしい解説(英語):Scientists discover how the brain rewires itself to truly multitask(ScienceDaily)


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