1920年代に吹き込まれたブルースのレコードから、これまで誰も聞いたことのない音が出てきました。新しく足した音ではありません。100年前から溝に刻まれていたのに、当時の再生機では鳴らしきれなかった音です。
7月24日に出荷が始まった全集『Ma Rainey: Mother of the Blues — The Complete Paramount Recordings, 1923–1928』で、その音が聞けるようになりました。
ブルースの母と呼ばれた歌手
ガートルード・”マ”・レイニーは、ブルースというジャンルがまだ形になりきっていない時代に舞台へ立ち、「ブルースの母」と呼ばれた歌手です。生年は資料によって割れています。1886年にジョージア州で生まれたとする資料が多い一方、1882年にアラバマ州ラッセル郡で生まれたとする記録もあり、今回の全集を出したレーベルは後者を採っています。
テント興行やヴォードヴィルの舞台で長く歌ってきた人で、1923年にパラマウント・レコードと契約し、1928年までに92曲を発表しました。自分でマネジメントを引き受けていて、レーベルの説明によれば、登録された著作権から見るかぎり録音した曲の3分の1以上を自分で書くか共作しています。伴奏には、若き日のルイ・アームストロング、バスサックスのコールマン・ホーキンス、フレッチャー・ヘンダーソンといった名前が並びます。
悪名高いパラマウント盤
問題は、その歌が残っているレコードのほうでした。パラマウント・レコードは、ウィスコンシン州グラフトンにある椅子工場の敷地でレコードを作っていた会社です。プレスに使われたのは、地元の粘土とシェラック(天然樹脂)に砕いた石を混ぜたもの。安く大量に作ることが最優先で、工員の訓練も十分ではなかったと記録されています。
できあがった盤は表面がざらついていて、針を落とすとノイズが目立ちます。パラマウント盤が「材質が粗悪」と言われ続けてきたのは、このためです。それでも同社は1920年代の黒人音楽の録音を大量に世に出し、当時発売されたブルースのレコードのおよそ4分の1を占めたと見られています。名演と粗悪な盤が、同じ場所から出ていました。
強い声ほど失われる仕組み
78回転盤は、音の大きさを溝の左右への蛇行に変えて刻みます。小さい音なら蛇行は浅く、大きい音になるほど溝は大きく、急に振れます。
ここで当時の再生機の作りが効いてきます。ビクトローラのような蓄音機は、鉄の針の震えを金属の振動板に伝え、それをラッパで大きくして鳴らす仕組みでした。電気を一切使わないぶん、針まわりの部品が重い。オーディオテクニカの解説によると、当時の蓄音機で針にかかっていた力は50グラムを超えていたそうです。いまSP盤を再生するためのカートリッジは5グラム前後ですから、10倍以上の差があります。
重い針は、急な蛇行についていけません。溝の振れが大きすぎるところでは、壁を乗り越えて隣の溝へ移ってしまいます。そこまでいかなくても、溝の形を正確になぞれずに音が歪む。しかも大きく振れている箇所ほど溝の壁にかかる負担が大きいので、材質の粗い盤では、そこから先に削れていきます。
レイニーがいちばん強く声を張ったところが、構造上いちばん先に犠牲になるわけです。修復技師のダグ・ベンソン氏は、当時の人が重い鉄針をつけたビクトローラでこのレコードをかけたとき、機械はレイニーの一番大きな音をそのまま飛び越えていた、とニューヨーク・タイムズに語っています。

復元で戻ってきた音
上の図のように、大きく振れた溝ほど針は追従できません。そこで今回の全集でベンソン氏がまずやったのは、1曲ごとに現存する78回転盤をかき集め、その中から状態の一番いい1枚を選び出すことでした。100年前の盤なので、同じ曲でも1枚ごとにすり減り方が違います。全118トラックぶん、これを繰り返しています。

選び終えてから、盤の状態に合わせてリマスターしていきます。結果として、当時の針が飛ばしていた強い声が音になって出てきました。スミソニアン誌によれば、それまで埋もれて聞こえなかったヴァイオリンのパートも聞き取れるようになったといいます。溝には最初から入っていたのに、100年のあいだ誰の耳にも届いていなかった。それが今回戻ってきた音の正体です。
音源分離ソフトを使わなかった理由
手法については、レーベルの公式資料にはっきり書かれていました。ベンソン氏と制作チームは、いま広く使われている「デミックス」——録音を歌や楽器のパートに分解して混ぜ直すソフトを、あえて使っていません。
理由は2つ挙げられています。1つは、デミックスのソフトがアコースティック録音にうまく効かないこと。マイクを使わず、ラッパに向かって演奏した音をそのまま溝に刻む方式の録音で、今回のセットのおよそ半分がこれにあたります。もう1つは、当時発売されたレコードの音に忠実でありたかったこと。分解して作り直せばたしかにきれいにはなりますが、それは当時の人が聞いた音とは別物になります。
実際、ノイズを取り除くと音楽のほうが損なわれてしまう箇所では、盤面のノイズをそのまま残す判断をしたそうです。この復元は、余計な音を「消す」方向ではなく、溝に残っている音を「拾い直す」方向に振り切っています。
セットの内容と入手方法
収録は5枚組、全118トラック。パラマウントに残した92曲に、別テイクと、これまでディスクになっていなかったテスト盤が加わっています。レーベルによれば、そのうち4つは今回が初出です。曲順はアルバムとしてのまとまりではなく、録音した順に並べてあります。
100ページを超えるブックレットも付いていて、執筆はグラミー賞に3度ノミネートされているデヴィッド・セイガー氏。未公開の写真、新聞の切り抜き、契約書、結婚許可証、全曲の解説とディスコグラフィが収められています。価格は125ドルで、レーベル公式サイトと系列のジャゾロジーが扱っています。
出したのはニューオーリンズのBlack Swan Records(George H. Buck Jazz Foundation傘下)。この名前は、1920年代に活動していた黒人所有の先駆的レーベルから受け継いだものです。レーベルの説明によると、そのオリジナルのBlack Swanで配給を担っていたJ・メイヨ・ウィリアムズが、レイニーが契約したのと同じ年にパラマウントのレコーディング・ディレクターに就いています。名前のつながりは、偶然ではなく歴史のほうでつながっていました。
解釈上の留意点
いくつか、区別しておきたい点があります。
まず、この復元にAIが使われたという情報はどこにも出ていません。むしろレーベルは、機械的に分離して組み直す方向をとらなかったと明言しています。「100年前の音がAIでよみがえった」という話ではない、というのが今回いちばん押さえておきたいところです。
ベンソン氏の「針が飛び越えていた」という発言は、ニューヨーク・タイムズの取材(7月29日付)が初出で、その記事は購読者向けです。ヴァイオリンのパートが聞こえるようになったという点も、いまのところこの取材と、それを引いたスミソニアン誌の記事で確認できる範囲の情報になります。
生年に1886年説と1882年説があることは上に書いたとおりで、どちらかに定まったわけではありません。
音源そのものには権利があるので、この記事では音を貼っていません。レーベルの公式サイトで4曲が公開されているほか、NPRの番組でも実際の音が流れているので、聞き比べたい方はそちらへどうぞ。
出典
- Smithsonian Magazine「Audio Engineers Restored Hidden Notes and Revealed Lost Instruments…」(2026年7月30日)
- Black Swan Records 公式サイト(BSCD-44/試聴4曲・修復方針の説明)
- Jazzology「Mother of the Blues: The Complete Paramount Recordings, 1923–1928」
- NPR「Ma Rainey, the so-called ‘Mother of the Blues,’ can now be heard clearer than ever」(2026年7月26日)
- ecoustics によるレビュー(修復方針の記述あり/2026年7月28日)
- Audio-Technica「Playing 78rpm records」(当時の針圧と現代のカートリッジの比較)
- Encyclopedia of Milwaukee「Paramount Record Label」


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