車のバッテリーを新品に替える。工具さえあれば10分で終わる作業だ。ところがいまの車では、それだけでは終わらないことがある。「新しいバッテリーに替えた」と車のコンピュータに登録し直さないと、車は古いバッテリーのつもりで充電を続けてしまうからだ。電子パーキングブレーキの車で後ろのブレーキパッドを替えるときも同じで、キャリパーを電子的に開かせる操作をしないと、そもそも作業に入れない。
ネジは外せる。部品も手に入る。なのに、ソフトが開かない。この状態を個人の手元で解こうとする製品として、米国で発売された診断端末が話題になっている。Goolooの「DeepScan DS600」だ。
ただし先に言っておくと、この端末が「メーカーの鍵をこじ開ける」わけではない。実際にやっていることは、その逆に近い。

交換作業に付いてきた登録作業
まず、なぜバッテリー交換に登録がいるのか。
いまの車は、燃費を稼ぐためにバッテリーの充電を細かく制御している。減り具合や劣化の程度をコンピュータが推定して、発電機を回す量を調整する。この推定は、そのバッテリーを積んでからの履歴を積み上げて作られている。だから中身だけ新品に入れ替えても、車は古い履歴のまま充電を続ける。結果として過充電になったり、逆に充電が足りなくなったりする。
電子パーキングブレーキも似た事情だ。パーキングブレーキがモーターで動く車では、後輪のブレーキパッドを交換するときにピストンを電子的に引っ込めておく必要がある。手で押し戻そうとすれば機構を壊す。
どちらも、部品の交換そのものより「交換したことを車に認めさせる」ほうが厄介になった作業だ。そしてこの操作は、車のコンピュータに一方的に命令を書き込む種類の通信になる。読み取るだけの操作とは性質が違う。
車内ネットワークに置かれた関所
ここに、もうひとつの事情が重なる。セキュアゲートウェイと呼ばれる仕組みだ。
車の運転席まわりには、OBD-IIポートという規格の差込口がある。1996年以降の米国車、日本でも2000年代以降の多くの車に付いていて、ここに診断機をつなぐと故障コードが読める。もともとは排ガス関係の点検のために義務づけられた口だが、実質的に車のコンピュータへの入口になっている。
問題は、この入口が誰にでも開いていることだった。車内ネットワークに直結しているので、悪意ある機器をつながれれば車の制御に手を出される。そこでメーカーは、ポートと車内ネットワークのあいだに関所を置いた。読み取りは通すが、書き込みや作動命令は、認証された相手にしか通さない。
この方式を最初に本格導入したのがFCA(現在のステランティス系)で、2018年ごろの車から採用が始まった。ステランティスの説明では、目的は診断データを見せないことではなく、登録・認証されていない相手に踏み込んだ操作をさせないことだとされている。一方で、街の整備工場や個人の側から見れば、故障コードを消すという単純な操作までできなくなった。安全対策なのか囲い込みなのか、評価が割れているのはこの重なりのためだ。
正規の認証サービスを通す設計
では、正規のディーラー以外はどうやってこの関所を通るのか。用意されているのが AutoAuth という認証サービスだ。
運営しているのは INTEGRITY Security Services, Inc.(カリフォルニア州アーバイン)で、自動車メーカーと診断機メーカーのあいだに立つ第三者にあたる。整備事業者がここに登録し、使う診断機のシリアル番号を紐づけておくと、その診断機が車の関所に対して「認証済みの相手だ」と名乗れるようになる。鍵をこじ開けているのではなく、正規の鍵を配る窓口が別にある、という構造になっている。
DS600は、この AutoAuth に対応した診断機として売られている。加えて、CAN FDという高速化された車載通信規格にも対応する。センサーが増えた最近の車はこの規格でデータをやり取りしていて、古い診断機ではそもそも会話が成立しない。
元記事の英語見出しは “jailbreak”(脱獄)という語を使っているが、記事の本文自体は「合法的な(legal)アクセス」と書いていて、見出しと中身が食い違っている。実際にやっていることは、認証を突破する行為ではない。
「サブスク不要」の適用範囲
この製品の売り文句は、専門店向けの機能が個人にも買える価格帯に降りてきた、という点にある。ただし「無料で全部使える」という話ではない。
Goolooの公式サイトの記載を読むと、追加料金なしで使えるのは、OBD2の基本機能と9種類のリセット機能、そして4系統(エンジン、トランスミッション、ABS、エアバッグ)の診断までだ。それとは別に、21の有料機能が用意されている。「サブスク不要」は、この無料の範囲についての話になる。
AutoAuthの費用も、本体価格とは別建てだ。AutoAuthの案内では、登録は「サービスセンター(工場)」として行い、支払いが発生する仕組みになっている。他社の診断機メーカーが公開している手順では年額50〜60ドル程度が目安として示されている。New Atlasの写真キャプションには「必要なパスキーの生涯無料サブスクが付く」とあるが、Goolooの製品説明にそうした記載は見当たらず、この点は確認が取れていない。
価格そのものも動いている。New Atlasが記事を出した8月2日時点では249.99ドル(通常価格およそ320ドル)だったが、Gooloo公式の米国サイトでは299.99ドルで、いまは在庫切れの通知登録になっている。7月末のプレスリリースではアマゾン米国で269.99ドル、希望小売価格319.99ドルという数字が出ていた。1ドル157円(2026年8月3日時点)で換算すると、249.99ドルはおよそ3万9000円、299.99ドルはおよそ4万7000円になる。
国内の車で使えるかどうかの未確認部分
日本の読者にとっていちばん知りたいのは、手持ちの車で同じことができるのかどうかだろう。ここは、はっきり言って確認が取れていない。
まず販売面。Goolooの公式ストアは米国、カナダ、オーストラリア、英国、ドイツ、フランス向けにあり、日本向けのストアはない。
次に認証の範囲。AutoAuthが対応しているのは、いまのところステランティス系(クライスラー、ダッジ、ジープ、ラム、フィアット、アルファロメオ)、日産・インフィニティ、メルセデス・ベンツとされている。フォルクスワーゲンやアウディは別方式で、AutoAuthではなく専用のアクセストークンを買う形だ。メルセデスにいたっては、AutoAuth側の認定技術者であることが条件で、その認定には米国発行の身分証が要る。つまり、この関所は「一枚の鍵で全メーカーが開く」ものではない。
そして日本の制度。日本では2020年4月から特定整備という枠組みが動いていて、従来の分解整備に加えて、自動ブレーキ用のカメラやレーダーの調整といった電子制御装置整備が対象に入った。これらを事業として行うには、作業場・整備主任者・スキャンツールの要件を満たして地方運輸局の認証を受ける必要がある。近畿運輸局が公開している認証取得の説明資料には、個人が趣味で自分の使う車を整備する場合を除き、特定整備を行うなら認証が必要だと明記されている。自分の車を自分でいじる範囲なら認証の話にはならないが、知人の車を有償で預かるような形になると話が変わる。
車検の側も電子化が進んでいる。2024年10月から、国産車は2021年10月以降の新型車を対象にOBD検査が車検に組み込まれた(輸入車は2025年10月から)。検査用のスキャンツールで特定DTCという故障コードを読み取り、自動車技術総合機構のサーバーと照合して合否を出す仕組みで、こちらは法定のスキャンツールと専用アプリを使う。市販の診断機で代用できるものではない。
診断ポートの先にある次の争点
元記事は最後に、この構図自体が長続きしない可能性を指摘している。
いまの攻防は、車体に物理的な診断ポートがあることを前提にしている。メーカーが車の通信を無線(OTA)とクラウド経由に移し、車の設定変更をメーカーのサーバー側でしか処理しないようにすれば、ポートに何をつないでも意味がなくなる。関所の位置が、車の中から車の外へ動く。
そうなったとき、10年後に二番目・三番目の持ち主に渡った車を、自宅の駐車場で維持できるのかどうか。この製品が投げかけているのは、249.99ドルの端末の話というより、そちらの問いのほうだ。
記事を読むうえでの留意点
いくつか、はっきりさせておきたい点がある。
元になったNew Atlasの記事は製品を紹介するもので、末尾に購入リンク経由で手数料を得る場合があると明記されている。実機を持ち込んで各社の車で試した検証記事ではない。「関所を通せる」「1分以内に車の構成を把握する」といった性能の説明は、いまのところメーカー側の説明にもとづくものだと考えたほうがいい。
また、メーカーが「かつて簡単だった整備を意図的に制限してきた」という見方は、元記事が取っている立場であって、確定した事実として書けるものではない。ステランティス側は、セキュアゲートウェイは診断データを隠すためではなく、認証されていない相手による踏み込んだ操作を防ぐためのものだと説明している。安全対策としての側面と、結果として整備の選択肢が狭まった側面は、どちらも実際に起きていることだ。
最後に、この端末を買えば自分で整備できます、とは書けない。日本での対応車種は未確認で、車検・整備に関わる国内の制度も上に書いたとおりだ。判断材料としての情報にとどめておきたい。


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