女王が出す、たった一種類のにおい。それだけで、群れのほかのメスは子を産めなくなる——地下に社会をつくる哺乳類ハダカデバネズミをめぐる「なぜ女王だけが繁殖するのか」という長年の謎に、一つの答えが見つかりました。ベルリンのマックス・デルブリュック分子医学センターを中心とする国際チームの研究で、2026年7月15日に科学誌『ネイチャー』に発表されています。
女王を頂点にした地下の社会
ハダカデバネズミは、東アフリカの乾いた土地の地下にトンネルを掘って暮らす、毛のないピンク色の齧歯類(げっしるい=ネズミの仲間)です。「老化しにくい」「がんになりにくい」といった話題で名前を聞いたことがある人もいるかもしれません。ただ、この動物の一番変わっているところは、体のつくりよりも社会のかたちにあります。
一つの群れ(コロニー)の中で子を産むのは、女王と呼ばれる一匹のメスだけ。ほかのメスは繁殖せず、エサ集めや子育て、巣の防衛といった仕事に回ります。役割をきっちり分け合って一匹の女王を頂点にするこうした社会は「真社会性」と呼ばれ、アリやハチではおなじみですが、哺乳類ではきわめてまれです。
おもしろいのは、ハチと違ってハダカデバネズミのメスはどの個体も女王になれる素質を持っている点です。ふだんは「思春期が止まったような状態」に置かれていて、生殖器官が未発達のまま、繁殖を抑えるホルモンであるプロラクチンの値が高く保たれています。では、一匹の女王はどうやってその座を守り、ほかのメスの繁殖を止めているのか。ここがずっと分かっていませんでした。
におい物質の正体
研究チームは、身分(コロニー内の順位)や年齢、繁殖状態のちがうハダカデバネズミ351匹について、体から出るにおい物質を片っ端から調べました。すると、女王にはたっぷりあるのに、ほかの個体からはほとんど検出されない化学物質が一つ浮かび上がってきます。イソプロピルミリステートという、揮発しにくいエステル(油に近い有機化合物)でした。
この物質は、実は化粧品によく使われている身近なもので、人間にとっては無臭とされています。女王の体でのつくられ方は繁殖サイクルに連動して増え減りし、排卵期にもっとも多くなることも分かりました。「もともとは、においの成分の一覧を作るのが目的でした。女王だけがつくる物質が見つかったときは、とても興奮しました」と、論文の筆頭著者モハメド・ハラフ氏は話しています。

においだけで繁殖を止めた実験
においの正体が分かっただけでは、それが本当に繁殖を止めているとは言えません。そこでチームは、いくつかの実験でこの物質の働きを確かめていきました。
まず脳の画像を調べると、繁殖していないメスにイソプロピルミリステートをかがせたとき、においを処理する神経(嗅覚神経)が反応していました。ほかの個体がこの物質のにおいをちゃんと受け取っている、ということです。次に、繁殖していないメスをコロニーから引き離したり、薬でにおいを感じられなくしたりしてみると、どちらの場合もプロラクチンの値が下がり、オスと組ませたメスは交尾できるようになりました。においの入り口をふさぐと、抑えが外れたわけです。
決め手になったのは、女王のいない群れでの実験でした。この物質を毎日足してやると、新しい女王が生まれるのを防げた一方、足すのをやめると、群れの中で攻撃や繁殖をめぐる争いが起きはじめました。女王がその場にいなくても、においさえあれば秩序は保たれる。つまり群れをまとめていたのは女王の存在そのものというより、女王の出すにおいだった、というわけです。においを浴びた個体では、プロラクチンが高いまま保たれ、もう一つのホルモンであるプロゲステロンが抑えられて、繁殖が止まる——そんな流れが示唆されています。しかもこの不妊は一時的なもので、においがなくなれば元に戻る、可逆的な抑制でした。
一種類の化学物質が支える秩序
この研究がとくに驚かれたのは、複雑な社会を回している信号が、たった一種類の化学物質だった点です。アリやハチのような昆虫では、複数のフェロモンを混ぜ合わせた「カクテル」で仲間をコントロールするのがふつうで、研究チームもそれを予想していました。ところがハダカデバネズミでは、一つの物質が繁殖の抑制と争いの抑止をまとめて担っていたのです。「たった一つのにおいが平和を保ち、暴力を防ぐ——SFのように聞こえるかもしれませんが、ハダカデバネズミの世界では現実です」とハラフ氏は述べています。
この物質は、近縁のデバネズミ類(Fukomys属)の繁殖メスからも見つかっています。ただし量はハダカデバネズミがずぬけて多く、そのことが、女王一匹に繁殖を集中させる極端な社会性と重なって見える、と研究チームは指摘しています。異なる動物が、同じような課題に同じような仕組みで応えている——進化がうまくいったやり方を、種を越えて何度も使い回している一例と言えそうです。
解釈上の留意点
まず、この物質が繁殖を止める「候補」として非常に有力なのは確かですが、体のどの受容体(においを受け取るセンサー)で感じ取っているのか、分子レベルの入り口はまだ特定されていません。プロラクチンが上がりプロゲステロンが下がるというホルモンの動きも観察されていますが、そこに至る詳しい道筋は引き続き調べる必要があります。この記事でも、細かいメカニズムは「〜と示唆される」の範囲にとどめています。
もう一点、これは飼育されたコロニーでの研究だということ。実験室で条件をそろえて確かめた結果であり、野生の群れでそのまま同じように働いているかは、これから確かめられていく部分です。あわせて、この物質は人間には無臭で、化粧品にも使われているありふれた成分ですが、だからといって人の体で同じ働きをするという話にはなりません。ハダカデバネズミという特殊な社会をもつ動物での発見として受け止めるのが、いまの段階では妥当です。
出典
A queen odour mediates reproductive suppression in a eusocial mammal(Nature、原論文・2026年7月15日)
How naked mole rat queens stop rivals reproducing(Nature News・解説記事)


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