量子の世界では、系を「測る」たびに状態がわずかに乱れる。その乱れが積み重なることで、ミクロな世界にも「時間はこっち向きに進んでいる」という感覚が生まれる。ロスアラモス国立研究所などの研究チームは、この測定のしかたを細かく制御することで、量子系のふるまいを統計的に「時間が逆向きに流れているほうに近い」状態へ寄せられることを示した。しかも同じ仕組みを使えば、測定という行為そのものからエネルギーを取り出せる——というのが今回の内容だ。
ただし先に言っておくと、これは理論と数値シミュレーションによる提案で、実際の装置で系を「時間をさかのぼって」動かしたわけではない。研究チーム自身も「タイムトラベルとは一切関係ない」と念を押している。査読は通っていて、物理学の専門誌 Physical Review X に2026年2月に掲載された。

「時間の矢」という考え方
割れた卵はひとりでに元に戻らないし、部屋に広がった煙が火元へ戻っていくこともない。私たちが日常で見る変化は、たいてい一方向にしか進まない。物理ではこの一方向性を「時間の矢」と呼び、ふつうはエントロピー(乱雑さ・散らかり具合)が増えていく向きと結びつけて考える。
ところが、ミクロな世界の基本法則はそうなっていない。粒子ひとつの運動を記述する式は、時間を逆向きにしても同じように成り立つ。時間反転に対して対称なのだ。研究の中心となったロスアラモス国立研究所の物理学者ルイス・ペドロ・ガルシア=ピントスは、微視レベルでは時間の前進も後退もどちらも物理的に起こりうる、と説明している。にもかかわらず、なぜ私たちの目に映る世界は一方向にしか進まないのか。これは物理学の長年の問いのひとつだ。
測定が生む時間の矢
量子系で時間の矢が顔を出すきっかけになるのが「測定」だ。ふつうのスケールの物理では、何かを測っても対象そのものはほとんど変わらない。ものさしを当てても長さは変わらない。ところが量子の世界では、測るという行為が対象の状態をランダムに変えてしまう。観測が対象を書き換えてしまうわけだ。
この測定を次々と繰り返すと、系はでこぼことした偶然まかせの経路(軌跡)をたどっていく。そして、その経路を順向きにたどる場合と逆向きにたどる場合とで「どちらがもっともらしいか」に差が出る。この差こそが、量子系における時間の矢の正体になる。
時間の矢を作り変える制御ツール
研究チームがやったのは、この測定による乱れを打ち消したり、逆に増やしたりできる道具立てを用意することだった。
鍵になるのは、連続的に監視(測定)されている量子系がたどる偶然まかせの軌跡を、そっくり再現できるハミルトニアン——系のエネルギーと時間の進み方を決める、いわば系の動きの設計図——を数式として明示的に組み立てたことだ。これをフィードバックの仕組みに組み込む。フィードバックとは、測定で得られた結果を見て、すぐさま系に操作を返すことをいう。
この設計図をうまく使うと、測定がもたらす乱れに対して「ちょうど打ち消す」「増幅する」「行き過ぎるほど補正する」といったことが選べるようになる。行き過ぎるほど補正したときに、系の軌跡の統計が、順向きの時間よりも逆向きの時間に整合的なほうへ傾く。チームは矢の強さを変える係数を導入し、その値を変えることで時間の矢を引き延ばしたり、ぼかして目立たなくしたり、さらには向きを反転させたりできることをシミュレーションで示した。計算では、ひとつの量子ビットを連続的に測り続ける設定を使っている。
つまり、時間の矢は測定のしかた次第で作り変えられる操作対象になりうる、というのがこの研究の核心だ。あくまで統計的な意味で「逆向きに近い」という話で、系が本当に過去へ巻き戻るわけではない。
測定からエネルギーを取り出す測定エンジン
この制御ツールにはもうひとつ、意外な使い道がある。エネルギーを取り出す「エンジン」だ。
系を監視する(測る)とき、測定は系にわずかなエネルギーを注ぎ込んでいる。研究チームは、フィードバックの過程を通じてこの注ぎ込まれたエネルギーを取り出し続ける「連続測定エンジン」を設計した。しかも、現実の装置で避けられないフィードバックの遅れがあっても働くように作られている。
発想のもとになっているのが「マクスウェルの悪魔」だ。これは19世紀に考えられた思考実験で、情報を使って粒子をより分け、あたかも散らかりを減らせるように見せる架空の存在をいう。今回のエンジンでは、測定によって得られる情報が熱力学的な資源として働き、そこからエネルギーを引き出せる。取り出したエネルギーは、別の量子操作を動かす力にしたり、量子バッテリーに蓄えたりすることが考えられる。
応用の可能性
時間の矢を操作できる制御ツールは、狙った量子状態を作り出す「状態の準備」に新しい手立てをもたらす可能性がある。量子コンピュータの性能向上や、量子バッテリーといった技術への波及も、著者らは応用先として挙げている。また、外部とやりとりのある「開いた系」について、時間を逆に回したときのふるまいをシミュレーションする道具としても使えるという。
解釈上の注意点
刺激的な見出しがつきやすいテーマなので、いくつか線引きをしておきたい。
まず、これはタイムトラベルの話ではない。著者本人がはっきりそう述べている。ここでいう「逆向き」は、系の軌跡が統計的に見て逆向きの時間に整合的だ、という意味であって、実際に過去へ戻る現象ではない。
次に、今回の成果は理論の構築と数値シミュレーションによるものだ。査読を経て専門誌に載ってはいるが、実際の装置での実証はこれからで、チームは超伝導量子ビットを使った実験を今後の課題に挙げている。測定からエネルギーを取り出す部分も、装置で動かして確かめるのはこの先の話になる。基礎研究として面白い一歩だが、すぐに何かの製品になるという段階ではない。
出典
論文(プレプリントは無料で読める):Reshaping the Quantum Arrow of Time(arXiv:2503.13615)/掲載誌:Physical Review X 16, 011028 (2026)
研究機関のプレス・解説:Controls Developed to Reshape Quantum Arrow of Time(The Quantum Insider)
著者:ルイス・ペドロ・ガルシア=ピントス(ロスアラモス国立研究所)、イーカイ・リウ、アレクセイ・V・ゴルシコフ(いずれもNIST/メリーランド大学)


コメント