カニバリズムは”割に合わない”——タブーを進化的な視点から読み解く

科学
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飢えてどうしようもないとき、目の前に食べられそうな「人間」がいたら、食べるのが得なのか。答えは、ほとんどの場合「損」でした。しかもその損は、気分や道徳の問題ではなく、集団まるごとを崩壊させかねない現実的なリスクだといいます。人食い(カニバリズム)がこれだけ強いタブーになったのは、人が本能的に嫌がるからというより、続けた集団が生き残れなかったから——そう計算で示した研究が、査読を通って発表されました。

手がけたのは、ヴロツワフ大学(ポーランド)の心理学者ミハウ・ミシャクさんと、プラハのカレル大学(チェコ)の進化生物学者ペトル・トゥレチェクさんの二人です。

くり返し現れるのに根づかない、という謎

カニバリズムは、世界のどの文化でもほぼ例外なく強く禁じられています。その一方で、考古学や歴史の記録をたどると、人が人を食べた痕跡はいろいろな時代・地域から何度も見つかります。イングランドで見つかった約1万4700年前の頭骨には、あごの肉をそぎ落とした跡が残っていました。

つまり、実際には何度も起きているのに、決して定着せず、むしろ最上級の禁忌として塗り固められていく。この「出ては消える」というちぐはぐさが、長らく説明のつかない謎でした。なぜくり返し現れ、なぜ根づかないのか。研究チームはここに、栄養と病気を同じ土俵に載せた計算で切り込みます。

人体を”食べ物”として計算するモデル

二人がつくったのは、人体を一つの食料源として扱い、そこから得られるものと失うものを差し引きするモデルです。得られるのはカロリー。失うほうは「手に入れる手間」「消化の負担」、そして最大の曲者である「感染」の三つに分けています。

まずカロリーの面では、人間はそれほどおいしい獲物ではありませんでした。エネルギー源として見ると、人体は特別に実入りのいい大物ではなく、大型の獲物と比べれば「並」の一食ぶんという計算になります。命がけで手に入れるほどの見返りは、そもそも小さいわけです。

本当の問題は、そのあとに来ます。

回を重ねるほど跳ね上がる感染リスク

肉に病原体がいるという点では、人間もほかの動物も変わりません。ただ、牛や鶏なら火を通せば多くはやっつけられますし、生き残った病原体も、体のつくりが違う相手にはうまく乗り移れないことが多い。ところが食べる側と食べられる側が同じヒトだと、体のつくりがほぼ同じなので、病原体にとっては「引っ越し先」が自分に都合よくできています。人から人へ乗り換えやすく、広がりやすいのです。

研究チームはこの感染コストを、「何回食べ継がれてきた体か」で膨らんでいく仕組みとしてモデルに組み込みました。Aを食べたBを、さらにCが食べ……とつながっていくほど、病原体が受け渡されるリスクが積み上がっていく。この食べ継ぎの回数を、論文は「カニバリズムの次数」と呼んでいます。次数が上がるほど、危険は足し算ではなく跳ね上がるように増えていきます。

計算の結果はこうです。カニバリズムが割に合う条件は、ごく狭い。食べ物が極端に乏しく、相手を手に入れる手間が小さく、しかも感染リスクが低く抑えられている——そんな限られた場面でだけ、かろうじて収支がプラスになります。逆に、それを日常的に続けたり、食べ継ぎの回数が重なったりすると、感染コストがあっという間に見返りを飲み込み、集団の存続そのものが危うくなる。人が人を食べるのは、条件がそろえば一時しのぎにはなっても、続ければ続けるほど急速に「割に合わなくなる」のです。

タブーという進化的な安全装置

ここから、タブーの見え方が変わってきます。感染コストが回を追うごとに跳ね上がるほど速いと、遺伝子の変化を通じたゆっくりした適応では、とても追いつけません。生き物としての進化が間に合わないなら、間に合う仕組みが別に要る。それが、文化としての禁止、つまりタブーだった、というのが二人の見立てです。

言い換えると、カニバリズムを止められなかった集団は病気の連鎖で立ちゆかなくなり、早めに強く禁じた集団が残った。その積み重ねが、いまの強固なタブーとして受け継がれている。研究者はこれを「進化的な安全装置」と表現しています。人間が、生物としての進化を待たずに文化のルールで危険を先回りできた——動物にはない、人ならではの立ち回りの広さを示す例だとしています。

解釈上の留意点

いくつか、そのまま鵜呑みにしないでおきたい点があります。

まず、これは実際の集団を観察した研究ではなく、条件を数式に置いて損得を見積もった理論モデルです。「こういう条件ならこうなりやすい」という枠組みを与えるもので、過去の出来事を直接測ったわけではありません。モデルの前提が変われば結論も動きます。

また、歴史上の「人食い」の話は、そのすべてが事実というわけではありません。他の文化を征服・支配することを正当化するために、でっち上げられた例が数多く含まれます。儀礼としてのカニバリズムがはっきり確認できる場合も、たいていは「誰が・どのように食べてよいか」に細かい決まりがともなっていて、無秩序な食人とは別物です。

そして、この研究は「飢えれば人は人を食べる」といった話をあおるものではありません。むしろ、割に合う場面が極端に狭いこと、そして禁じる仕組みが集団を守ってきたことを示す内容です。極限の欠乏という限られた条件でだけ意味を持つ、という距離感で読むのが正確です。

出典・参考リンク

元論文(査読済み、PNAS):Michal Misiak & Petr Tureček, “The cannibalistic trade-off: Why human cannibalism emerges and why taboos suppress it,” Proceedings of the National Academy of Sciences, 123(27), e2605120123 (2026).
https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.2605120123(DOI: 10.1073/pnas.2605120123)

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