オーストリアの牧草地で暮らす1頭の牛が、デッキブラシを口にくわえ、ブラシ側と柄側を使い分けて自分の体をかいていた。牛が道具を使ったと確認された報告は、これが初めてになる。
報告したのはウィーン獣医大学のチームで、2026年1月19日付の学術誌 Current Biology に掲載された。1万年以上も人間のそばで暮らしてきた動物なのに、その道具使用が記録されたのは今回が最初、ということになる。

家畜の知能をめぐる思い込み
1982年、漫画家ゲイリー・ラーソンが「Cow Tools(牛の道具)」という一コマ漫画を発表した。牛が、何に使うのかさっぱり分からない奇妙な物体の横に得意げに立っている、という絵だ。笑いの前提はシンプルで、「牛が道具なんて作ったり使ったりするわけがない」というところにある。
研究の世界でも、事情はそう変わらなかった。牛の認知に関する研究はもともと数が少なく、あってもほとんどが生産性や飼育環境の改善といった実用寄りのテーマに限られてきた。論文の著者らは、家畜が「食べるための動物」として扱われてきたことが、その知能を低く見積もる方向に働いてきたのではないか、と指摘している。
道具使用は、動物の知能を測る物差しとしてはかなり厳しめの部類に入る。外にある物を操作して、目的を達成するために使う——この定義に当てはまる行動は、チンパンジーやカラス、ゾウなどでは知られているが、牛では確認例がなかった。
ブラシの両端の使い分け
主役はヴェロニカという名前の13歳のブラウンスイス種。オーストリア南部ケルンテン州の小さな村ネッチュ・イム・ガイルタールで暮らしている。飼い主のヴィトガー・ヴィーゲレさんは有機農家兼パン職人で、ヴェロニカを肉や乳のためではなく、家族の一員としてのペットとして飼っている。
10年以上前から、ヴェロニカは牧場に転がっている棒をときどき口にくわえ、それで自分の体をかいていた。夏になるとアブが大量に出る土地で、届かない場所がかゆくなる事情もあったらしい。その様子を撮った動画が研究者のもとへ届いたのが、話の始まりになる。
研究チームが実験に使ったのは、デッキブラシ。片方の端は硬い毛が生えたブラシ、もう片方は木の柄という、左右で性質の違う道具だ。これを牧草地に置いてみたところ、ヴェロニカは長い舌を伸ばしてブラシを持ち上げ、口の中に引き込み、前歯と奥歯のあいだの隙間(歯隙・しげき。牛の口には、この歯のない空間がある)にがっちりくわえて固定した。そのまま首を回して、体をかき始めた。
興味深いのは、その先だ。皮膚が厚い背中や尻のような部分には、硬い毛のブラシ側を当てて力強くこする。一方、乳房やへその周りといった皮膚のやわらかい下側には、毛のない柄の側を当てて、そっと押し当てるように使う。つまりヴェロニカは、1本の道具の異なる部分を、当てる場所に応じて別々の機能として使い分けていた。
この「多目的な道具の使用」——1つの物体が持つ別々の性質を、目的ごとに切り替えて引き出す使い方——が一貫して確認されている動物は、ヒト以外ではこれまでチンパンジーだけだった。

向きをランダムにした実験
偶然そう見えているだけ、という可能性を潰すために、研究チームはブラシの置き方を工夫している。毎回ランダムに近い形でブラシの向きを変えて地面に置き、ヴェロニカがどちらの端を選び、体のどこに当てたかを記録していった。ブラシの向きが決まっていれば「たまたま近いほうをくわえただけ」で説明がついてしまうからだ。
7セッション、各10試行の実験で、道具を使った場面は76回記録された。当てた場所は例外なく体の後ろ半分——尻、腰、乳房、へその周りなど、口や脚では届きにくいところに限られていた。そして端の選択にも偏りがあり、ブラシ側を使う回数のほうが有意に多かった(χ²=5.13、p=0.023)。つまり、置かれた向きに引きずられず、届かない場所を狙って、そこに合う端を選んでいた。
著者らは、この行動を「自己中心的な道具使用」と位置づけている。自分の体に対して使うタイプの道具使用で、外にある物を操作する使い方(チンパンジーが小枝でシロアリを釣るような)よりは、一般に難易度が低いとされる。それでも、手を持たない動物が口と舌だけで棒を拾い、向きを整えて固定し、狙った場所に当てているという事実は残る。
畜産動物の認知研究への含み
研究者らが強調しているのは、「牛は思ったより賢い」という話ではなく、「牛を賢くないと決めつけていたせいで、誰も見ていなかった」という点のほうだ。世界には約15億頭の牛がいて、人間は少なくとも1万年その隣で暮らしてきた。それだけの数と時間がありながら記録がゼロだったのは、能力がなかったからではなく、探していなかったからかもしれない——というのが今回の含みになる。
チームは現在、どんな環境や社会条件があればこうした行動が出てくるのかを調べており、似た行動を見たことがある人からの情報提供も呼びかけている。
解釈上の留意点
いくつか押さえておきたいところがある。
- 対象は1頭だけ。今回の報告はヴェロニカという個体の事例研究であり、牛という種全体に道具使用の能力があると示したわけではない。
- ヴェロニカの境遇は例外的。多くの牛は13歳まで生きないし、広い牧草地で暮らしてもいないし、いじれる物が周りに転がっているわけでもない。長い寿命、物の多い環境、人との日常的な接触——この3つがそろって初めて出てきた行動である可能性が高い、と著者ら自身が書いている。
- 教えられた行動ではない点は確認されているが、逆に言えば、どうやって身につけたのかは分かっていない。
それでも、「家畜だから何もできない」という前提が一度崩れたことの意味は小さくない。同じことが他の家畜でも起きていて、単に誰も記録していないだけ、という可能性は残っている。
出典
- Osuna-Mascaró, A. J. & Auersperg, A. M. I. (2026). Flexible use of a multi-purpose tool by a cow. Current Biology, 36(2), R44. DOI: 10.1016/j.cub.2025.11.059(オープンアクセス/全文無料)
- ウィーン獣医大学 プレスリリース
- EurekAlert!(Cell Press 発表)


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