クロアチア南部、アドリア海に浮かぶムリェト島の沖に、1300年ほど前に沈んだ船が横たわっています。この船を10年以上かけて調べてきたクロアチア保存修復研究所が、2026年7月22日、これまでの成果をはじめてまとめて公表しました。海底から引き揚げられた金は、洗浄と修復を終えた状態で合わせて600グラム余り。地中海の沈没船から見つかった金としては、これが最も多い量になります。
600グラムというと、500mlのペットボトル1本ぶんの水より少し重い程度です。財宝と呼ぶには、量そのものはささやかとも言えます。それでもこの船が特別扱いされているのは、金の重さではなく、積荷の顔ぶれと、沈んだ時代の組み合わせのほうに理由があります。

引き揚げられた遺物の内訳
船が沈んだのは7世紀の終わりから8世紀にかけて。ビザンチン帝国、つまり西ローマ帝国の滅亡後も1000年近く続いた東ローマ帝国の時代です。
海底から出てきたもののうち、最も目を引くのは金製のベルト飾りでした。留め金と帯の先端飾りが対になった「ベルト一式」が4組。そのうちの一つは、ルビー・エメラルド・真珠をびっしりと象嵌した豪華なものです。こうした飾りは、高位の役人が革のベルトに付けて身分を示すための品で、これまで地中海の水中遺跡から見つかった例はありませんでした。墓の副葬品としてなら知られていたものが、はじめて「運ばれている途中」の状態で見つかったことになります。
金貨も出ています。コンスタンティノープルの造幣所の印が入ったソリドゥス金貨が14枚。ヘラクレイオス王朝の4人の皇帝の姿が刻まれており、7世紀末のものと判断されました。この金貨が、船が沈んだ時期を絞り込む手がかりになっています。
そして印章指輪(いんしょうゆびわ)。文書に押して封をするための指輪で、皇帝の名で公文書を封じる権限を持つ人物しか身につけられないものです。刻まれているのは王朝の始祖ヘラクレイオス帝(在位610〜641年)の肖像とみられていますが、研究所の発表自体は「ヘラクレイオス王朝の皇帝」という慎重な言い方にとどめています。
一方で、船からはごく日常的な品も大量に出ています。アンフォラ(ワインや油を運ぶ両側に取っ手のついた大きな壺)が約100個、鉢や水差しや皿といった陶器が100点以上。ほかにも青銅の大鍋、石臼、釣り具、商取引に使う天秤とおもり、象牙の札、さらにはバックギャモンかチェッカーに使ったとみられる駒とサイコロまで見つかりました。
記録が途切れた時代
この時代のアドリア海は、文献のうえではほとんど空白です。7世紀から8世紀にかけて、ラテン語でもギリシャ語でも、この海での航海や交易に触れた記述がめっきり少なくなります。ヴェネツィア・カフォスカリ大学の中世史家フランチェスコ・ボッリ氏は、この時期をそのまま「空白」と表現しています。
背景には帝国の苦境がありました。7世紀のビザンチン帝国は、疫病と飢饉、ペルシャとの長い戦争で消耗しきったところに、急速に拡大したイスラム勢力の進出を受けます。中東・北アフリカの豊かな属州を次々に失い、700年ごろの帝国は最も弱っていた時期にあたります。かつてエジプトの穀物を積んだ船でにぎわっていた海運も、この頃には途絶えたと考えられてきました。
記録が乏しいこの時代は、かつて「暗黒時代」と呼ばれていました。近年の研究では、文化も商業も停滞などしていなかったことが分かってきていますが、書き残されたものが少ないという事実は変わりません。だから、実際に何が動いていたのかを知るには、モノに頼るしかない。今回の船が注目されるのは、まさにその一点です。停滞していたはずの海に、皇帝と直結する金製品を積んだ船が通っていた——文字が語らなくなった時代の航海が、海底の積荷から立ち上がってきました。
印章指輪が示す乗客の地位
研究チームは、この船に相当な地位の人物が乗っていたと考えています。根拠は指輪とベルト飾りです。
ケンブリッジ大学のビザンチン史研究者ピーター・サリス氏によれば、金のベルト一式や皇帝の印章指輪は、ビザンチン皇帝が友好を保ちたい相手に贈る品としてまさに典型的なものでした。実例もあります。7世紀半ば、皇帝コンスタンス2世はカフカス・アルバニアの君主に装飾品をまとめて贈っており、その中には祖父ヘラクレイオス帝が使っていたベルトの留め金一式が含まれていました。サリス氏は、皇帝ゆかりの品の重みを、いまのイギリス政府が関係を保ちたい国の指導者にチャーチルの懐中時計を贈るようなものだ、とたとえています。
ベルト飾りの様式からも、外との接点が見えてきます。ウィーン大学でこの時代のベルト飾りを研究しているファルコ・ダイム氏によれば、船から出た一式は、かつてアヴァール人(当時ドナウ川流域に勢力を持っていた遊牧民)の墓から出土したものと寸分たがわず、同じ工房で作られたとしか考えられないといいます。ビザンチンの工房で作られた品が、実際に周辺勢力の手に渡っていたわけです。

積荷の不可解な取り合わせ
ところが、外交の贈り物という筋書きだけでは説明のつかないものも一緒に出ています。
まず、ベルト飾りの年代がばらばらでした。4組の製作年代は7世紀のほぼ全期間にまたがっており、船が出港した時点ですでに数十年前の骨董品になっていたものが混ざっています。ダイム氏はこれを、歴史的に解釈するのが難しい状態だと表現しています。
さらに、船には金細工の道具一式が積まれていました。天秤とおもり、るつぼ、そして水銀です。水銀は、合金から金だけを取り出すために金細工師が使うもの。古い装飾品を溶かして作り直すつもりだった、と考えれば筋は通ります。ただしそれなら、皇帝の印章指輪まで積んでいた理由が説明できません。
積荷の量もちぐはぐです。この船は全長18メートルほど、積載量60トン程度の中型貨物船と推定されていますが、見つかったアンフォラは約100個しかありませんでした。船のサイズからすればごく一部で、通常の交易船なら本来もっと満載しているはずの量です。つまり、この航海を成り立たせていたのは、油やワインを運ぶ運賃ではなかったことになります。発掘を率いるイゴル・ミホリェク氏は、これが普通の商売の航海ではなかったのは確かだ、と述べています。
いまのところ、解釈は二つ並んだままです。皇帝の使者が贈り物を携えて同盟相手のもとへ向かっていたのか、それとも、ごく普通の貨物船にたまたま裕福な有力者が乗り合わせていたのか。見つかっている品だけでは、どちらかに決められる段階ではありません。
水深40メートルでの発掘
この船が長く手つかずで残っていたのには理由があります。ムリェト島は20世紀の大半、ユーゴスラビア軍の管理下に置かれていて、一般のダイバーが潜れませんでした。ユーゴスラビア解体後は保護区に指定され、結果として海底の遺跡が荒らされずに済んだのです。
船が見つかったのは2014年。ミホリェク氏が、朽ちた船材のあいだに転がる青銅の大鍋に目を留めたのが始まりでした。周囲に散らばるアンフォラの形と作りから、これがアドリア海ではきわめて珍しいビザンチン期の船で、しかもかなり古いものだと見当がついたといいます。翌2015年から本格的な発掘が始まり、これまでに9回の調査が行われました。
作業の条件はかなり厳しいものでした。船の残骸は水深40メートルほどの急峻な岩場に散らばっており、安全を確保するため、潜水士が現場にいられるのは1日30分あまり。予算も潤沢ではなく、夏に2週間ほど通うのが精一杯でした。金属探知機で金属を探し、泥の中から遺物を取り出し、位置をグリッド上に記録して3次元の地図を作る——水中考古学の手順そのものは通常どおりですが、それを短い潜水時間の積み重ねでこなすため、10年という時間がかかっています。
引き揚げたあとも時間がかかります。1300年ぶん染み込んだ塩を抜くため、遺物はまず1年ほど真水の槽に漬けておく必要があり、細かい観察や修復に取りかかれるのはそのあとです。
今後の分析と課題
2026年からは、スタンフォード大学のジャスティン・ライドワンガー氏らのチームが加わり、アンフォラと陶器の分析を担当しています。同氏は今回の船を、この時代でもっとも重要な沈没船だと評しています。ベルト飾りが「墓の中」ではなく「移動中」の状態で見つかった例がこれまでほとんどなかった、という点を重く見ての評価です。
予備的な分析からは、この船が想定以上に広い範囲を航行していた可能性も出てきました。壺の産地に南イタリアや北アフリカとのつながりが見えるためです。イスラム勢力による征服のあとも、ビザンチンの商人が北アフリカと直接取引を続けていたのか——文献では追いにくかった問いに、壺の形と粘土が手がかりを与えることになります。
ベルト飾りの製作技術についてはダイム氏らが、金貨については別の研究者が分析を進めており、チームは現地調査も続ける方針です。船の出発地はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で、480キロほど離れたラヴェンナへ向かっていたのではないか、というのが現時点での見立てですが、確定はしていません。
沈没の原因についても推測の域を出ません。この海域では、山から冷たい空気が一気に吹き下ろす「ボラ」という突風が知られています。穏やかだった海面が数分で大荒れになる風で、船は避難できる港を目指している最中に飲み込まれたのではないか、と考えられています。難破船の位置が、ポラチェ湾という古代からの避難港の入口にあたることが、その根拠です。
解釈上の留意点
いくつか補足しておきます。今回の発表は査読を経た論文ではなく、調査を担当する研究機関による公式発表です。分析は現在も進行中で、今後の検証で解釈が変わる可能性があります。
「地中海最多」という記録の範囲にも注意が必要です。これは地中海の沈没船から見つかった金の量としての比較であり、世界の沈没船を通じた記録ではありません。カリブ海のスペイン船のように、桁違いの金銀を積んだ難破船は他にもあります。
発掘そのものは2015年から続いており、今回のニュースは新たに何かが見つかったという速報ではなく、10年ぶんの成果をまとめて公表したものです。また、指輪の肖像がヘラクレイオス帝本人かどうか、船に乗っていた人物が誰だったのか、航海の目的が何だったのかは、いずれも未確定のまま残されています。
出典・もっと知りたい人へ
クロアチア保存修復研究所の発表(クロアチア語):Bizantski brodolom na Mljetu
National Geographic の詳報:Can this medieval Byzantine shipwreck rewrite history?
Smithsonian Magazine:This Medieval Byzantine Shipwreck Boasts More Gold Treasures Than Any Other Vessel Found Beneath the Mediterranean
ロイターの報道:Byzantine gold objects help archaeologists uncover past of ship wrecked off Croatia


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