遺体を樹脂に置き換えて、腐らない標本にする。プラスティネーションと呼ばれるその技術を発明したドイツの解剖学者、グンター・フォン・ハーゲンスが、2026年7月24日に81歳で亡くなりました。そして本人の希望により、その遺体自身がプラスティネーション処理されることになっています。
自分が作った技術の対象に、最後は自分がなる。訃報のなかでいちばん強い一行は、そこでした。
死因は脳出血です。前日に倒れてハイデルベルクの病院に運ばれ、翌日そこで亡くなりました。2008年にパーキンソン病と診断されており、晩年は動作や発話に影響が出て、仕事の多くを家族に引き継いでいました。
発明に至った逆転の発想
ハーゲンスは1945年1月10日、当時ドイツ領で現在はポーランドにあたる土地に、グンター・ゲルハルト・リープヒェンという名前で生まれています。東ドイツで医学の勉強を始め、1970年に西ドイツへ移りました。
きっかけは、ハイデルベルク大学で解剖学の助手をしていたときのことです。透明なプラスチックのブロックに埋め込まれた標本を見て、ひとつの疑問が浮かびます。どうしてプラスチックを標本のまわりに流し込むのだろう。標本のなかに入れれば、内側から支えられるのではないか。
その場でこの案を話した相手の答えは「無理だ」というものでした。ハーゲンスは後年のテレビ出演で、そう言われたことがかえって頭から離れなくなった、と振り返っています。
実際に最初の標本ができたのは1977年。腎臓の研究をしている最中でした。公式の年表には1月10日と日付まで残っています。彼自身の誕生日と同じ日です。
水を樹脂に置き換える原理
プラスティネーションの中身は、名前から想像されるほど複雑ではありません。組織の中にある水と脂を抜いて、そこにできた隙間を樹脂で埋める。それだけです。
難しいのは、その入れ替えを細胞の一つひとつまで行き渡らせるところにあります。水を抜いただけでは組織は縮んで形が崩れてしまうし、樹脂をそのまま流し込んでも表面で固まって奥まで届かない。
そこで間に一段はさむのが、アセトンです。除光液に使われる、あの揮発しやすい液体。低温にした組織をアセトンに浸けると、水と溶けやすい脂だけがアセトン側へ出ていき、代わりにアセトンが細胞の中に入り込みます。この時点で、体は「水で満たされたもの」から「アセトンで満たされたもの」に置き換わっています。

そのうえで、液状のポリマー(シリコーンゴムやポリエステル、エポキシ樹脂など)の中に沈めて、まわりの気圧を下げます。すると、アセトンは常温でも沸騰します。細胞の中から蒸気になって出ていったアセトンは、あとに空っぽの隙間を残す。そこへ外側のポリマーが吸い込まれていく——引っぱるのではなく、抜けた分だけ入る、という置き換わり方です。
つまり、水をアセトンに、アセトンを樹脂に、二段階で入れ替えている。この「アセトンをはさむ」というひと手間が、技術の中心にあります。
完成までの五つの工程
公式に整理されている手順は五段階です。まず動脈からホルマリンなどの固定液を送り込んで細菌を殺し、組織が腐るのを止めます。ここは3〜4時間ほど。続いて解剖に入り、皮膚や脂肪、結合組織を取り除いて、見せたい構造だけを残していきます。標本の複雑さによっては、この解剖だけで500〜1000時間かかります。
次がアセトンによる脱水・脱脂、その次が真空をかけての含浸で、こちらは2〜5週間。含浸が終わった段階では体はまだ柔らかいので、四段階目でワイヤーや針、クランプ、発泡ブロックを使って姿勢を決めます。この整形には数週間から数か月かかることもあります。最後に、使った樹脂に応じてガス・光・熱のいずれかで硬化させて完成です。
全身1体でおよそ1500作業時間、実際に手元を離れるまでは1年ほど。ブリーフや報道でよく出てくる「1500時間」という数字は、この作業時間のことです。
日本での最初の公開
この技術が最初に人前に出たのは、ドイツではなく日本でした。
1995年3月30日から4月4日まで、東京大学総合研究博物館で「プラスティネーション」展が開かれています。主催は日本解剖学会で、百周年記念事業の一環でした。ただし会場は大学構内で、広く一般に向けたものではありません。
一般公開としての最初は、同じ年の9月15日から11月26日まで、上野の国立科学博物館で開かれた「人体の世界」展です。主催は国立科学博物館・日本解剖学会・読売新聞社。Body Worlds 側の記録では、この日本での公開が予想以上の反響を呼んだとされています。
一方、「Körperwelten(英語名 Body Worlds)」という名前を掲げた展覧会そのものは、1997年10月30日にマンハイムの州立技術労働博物館で始まったものが最初です。ここには全身標本が15体並びました。ドイツでの反応は日本とは対照的で、開幕前夜に州の会議で中止が検討され、教会関係者が来場しないよう呼びかけるなど、激しい論争のなかでの開幕になっています。
その後の広がりは大きく、主催者側の集計では、42か国・6大陸・170以上の都市で、延べ5800万人以上が訪れました。献体の登録者は2025年1月時点で2万2000人を超え、その多くはドイツ人です。プラスティネーション自体も医学教育の道具として定着し、いまでは世界に400以上の施設があります。
展示をめぐる批判
評価が一方向だったわけではありません。2000年代前半には強い反発が起きています。
宗教者や作家からは、彼の仕事をナチスの犯罪になぞらえる声が上がりました。ある聖職者は、子どもが人形で遊ぶように遺体を扱っている、と非難しています。カトリック教会の関係者やユダヤ教のラビからも、人体への敬意と両立しないという指摘が出ました。
ハーゲンス自身はこれに対し、解剖学者というのは日々の仕事のなかで、人が死や遺体について抱いているタブーや思い込みを退けざるを得ない立場なのだ、と反論しています。自分は誰にとっても最も近い存在である体というタブーに触れているのだ、と。
批判を呼び込む振る舞いも目立ちました。2002年にはロンドンの劇場で、500人の観客を前に公開解剖を行っています。イギリスで170年ぶりのことで、事前に政府の担当官から違法になりうると警告を受けたうえでの実施でした。
標本の入手経路への疑義
より深刻だったのは、遺体がどこから来たのかという問題です。
ハーゲンスは1999年に中国・大連にプラスティネーションの施設を設けており、標本製作の多くをそこで行っていました。2004年1月、ドイツの雑誌シュピーゲルが、内部の電子メールや記録をもとに、この施設が処刑された中国人受刑者の遺体を受け取っていたと報じます。地下の保管庫にあった遺体のうち複数に頭部の損傷があり、少なくとも2体には頭蓋骨に銃創があった、という内容でした。
ハーゲンスは、中国人従業員に処刑された遺体を受け取らないよう指示していると述べ、頭部に損傷のあった7体を中国へ返却しています。同時に、Body Worlds で展示している標本はすべて生前の同意を得た献体であるという立場を一貫して崩しませんでした。法的にはハーゲンス側が押し戻した形で、シュピーゲル側は後にこの主張を繰り返さないと約束し、2005年春にはシュピーゲル・オンラインに対して仮処分も得ています。
ただし、献体の記録が第三者によって独立に検証されたことはありません。疑いが法廷で確定したわけでもなく、晴れたわけでもない。そこが今も残っている、というのが正確なところだと思います。
「人体の不思議展」との関係
日本で人体標本の展覧会というと、2000年代に各地を回った「人体の不思議展」を思い出す人が多いはずです。ここは事実関係が入り組んでいるので、切り分けておきます。
1996年に大阪から始まった巡回展は、ハイデルベルク大学プラスティネーション研究所と日本側の監修委員会が主催するもので、ハーゲンス側との提携で行われていました。福岡市博物館では1998年の会期中に28万人以上が訪れています。ところが1998年から99年ごろ、日本側の主催者とハーゲンスとの間で契約内容をめぐって折り合いがつかなくなり、提携は解消。標本もプラスティネーション研究所に返却されて、この巡回展はいったん終わりました。
2002年から再開された「(新)人体の不思議展」は、ここから先が別物です。主催団体の構成が変わり、ハーゲンスの研究所とは無関係の、中国で加工された標本が使われるようになりました。
この後の展覧会に対して、遺体の入手経路をめぐる疑義が向けられます。主催者は同意を得た献体だと表示していましたが、証明書の開示を求められても応じませんでした。2010年12月には京都府保険医協会などが死体解剖保存法違反で刑事告発。翌2011年1月に厚生労働省が「標本は法律上の死体にあたる」との見解を示し、大きく報じられました。同年5月、京都府警は展示にともなう標本の保管は同法でいう「保存」にはあたらないと判断して立件を見送り、検察も故意を立証できないとして不起訴としています。展覧会は2012年3月に閉幕と事務局の解散を宣言しました。
つまり、日本で問題になった展覧会と、ハーゲンスの Body Worlds は、途中から別の道を歩いています。どちらも同じ技術から出ていることは確かですが、批判の宛先としては分けて見る必要があります。
自身の遺体をめぐる選択
自分の遺体をプラスティネーションするという意思は、急に出てきたものではありません。2010年、65歳のときに、パーキンソン病であることを公表した際、彼はすでにそう話しています。妻でありBody Worlds のキュレーターでもあるアンゲリーナ・ホエリーが処理を行うこと、準備をすでに始めていること、そして自分の標本を展覧会の入口に立たせて、死んだあとも来場者を迎えたい、ということまで。
今回の訃報を受けて、彼が創設したグーベンのプラスティナリウムの広報も、その遺体は間違いなくプラスティネーションされる、と述べています。
倫理的な当否をひとまず置くとして、この選択には一つはっきりしていることがあります。彼は生涯、展示されている標本はすべて自分で決めて献体した人たちのものだと言い続けてきました。その最後に、自分自身をその列に加えた。批判に対する反論として、これ以上わかりやすい形はなかったのだろうと思います。
もっとも、それで批判が解消するわけでもありません。本人が納得ずくで標本になることと、展示という行為そのものを社会がどう扱うかは、別の問題として残ります。
解釈上の留意点
いくつか線を引いておきます。
来場者数や献体登録者数、施設数といった数字は、Body Worlds と Institute for Plastination が公表しているもので、第三者による集計ではありません。桁の感覚をつかむには十分ですが、独立に検証された数値ではないという前提で読むのが妥当です。
中国での遺体の入手経路については、報道された疑義と、それに対する本人の説明・法的な結果があり、どちらか一方だけを書くと像が歪みます。この記事では両方を並べましたが、決着がついていない領域であることは変わりません。
Body Worlds の「初公開」がどこかという話は、何を初回と数えるかで答えが変わります。標本の展示そのものは1995年3月の東京大学総合研究博物館、一般への公開は同年9月の国立科学博物館、Body Worlds という名前を冠した展覧会は1997年のマンハイム。海外の報道では「1995年に東京大学で」とだけ書かれることもありますが、その一行には三つの出来事が畳み込まれています。
そして遺体のプラスティネーションが実際に行われたのか、行われたとしていつ完了して、どう扱われるのかは、この記事を書いている時点では公表されていません。工程からいって、少なくとも1年近くはかかる話です。
出典・もっと知りたい人へ
訃報と本人の意思については、Body Worlds/Institute for Plastination の公式発表が一次情報です:Gunther von Hagens 1945–2026
技術の五段階と所要時間:Plastination Technique(Body Worlds 公式)
年表・数字(1977年の最初の標本、1995年の東京公開、献体登録者数、施設数):Developments(Body Worlds 公式)
この記事を書くきっかけになった記事:Smithsonian Magazine(2026年7月31日)
日本での展示の経緯(会期・主催の一覧):篠原功治「人体標本の展示について」愛媛県総合科学博物館研究報告 No.8(2003年)PDF
「人体の不思議展」をめぐる経過は、告発の当事者である京都府保険医協会の保険医新聞の記事に詳しく残っています。


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