母バチが出すにおいの強さが、娘バチの進路を左右していた——パナマの森にすむ小さなハチで、巣に残って母を手伝うか、出ていって自分の巣を持つかという娘の選択に、母親のフェロモンが効いていることが分かりました。しかもそのにおいは、体のつくりの都合で「盛る」ことができない、正直な指標になっているといいます。
スミソニアン熱帯研究所(STRI)とプリンストン大学のカラム・キングウェル氏、STRIのビル・ウィスロ氏らによる研究で、2026年7月28日付の学術誌『Proceedings of the Royal Society B』に発表されました。
単独でも群れでも暮らせるハチ
ミツバチやアリの巣では、卵を産む女王と、産まずに働くほかの個体とで役割がはっきり分かれています。この分業を支えているのが女王フェロモン——女王が体から出す化学物質で、ほかの個体の行動や体のはたらきを変える信号です。
今回の主役は、そこまでかっちりしていないハチです。中南米の森にすむコハナバチの一種、メガロプタ・ゲナリス(Megalopta genalis)。夜に活動する珍しいタイプのハチで、枯れ枝の中をかじってトンネルを掘り、そこを巣にします。
このハチのメスは、大人になるときに進路を選びます。母親の巣に残り、自分では卵を産まずに手伝い役に回るか、巣を出て自分の巣を構えるか。出た先で単独で暮らすこともあれば、新しく社会的な巣を立ち上げることもあります。母親の座を奪ってしまう個体もいます。
同じ種の中に、群れで暮らす個体とひとりで暮らす個体が両方いて、しかも一生のうちに切り替わりうる。こういう性質は「柔軟な社会性」と呼ばれます。役割が固定されたミツバチを見ているだけでは分からない、社会が固まる手前の段階をそのまま観察できるので、進化を考えるうえで格好の材料になります。

野外での追跡と化学分析
研究の舞台は、パナマ運河の中にあるバロ・コロラド島。チームはハチの生息地に数百個の人工の巣を置き、数年かけて観察を続けました。一匹ずつに印をつけて動画で記録し、それぞれの娘が巣に残って働いたのか、母親の座を奪ったのか、出ていって別の場所で繁殖したのかを追いかけています。
同時に調べたのが、ハチの体の表面をおおう化学物質です。ガスクロマトグラフィーと質量分析(混ざった成分を一つずつ分離して、種類と量を割り出す手法)を組み合わせて、どんな物質がどれだけあるかを測りました。
この研究で目を引くのは、分析装置を島に持ち込んだ点です。おかげで生きたまま同じ個体から何度もサンプルを取ることができ、野外で自由に暮らしている一匹一匹について、化学的なやりとりが一生を通じてどう変わるかを追えたとキングウェル氏は説明しています。
女王が出す物質の正体
分析から浮かび上がったのは、メチルアルカンと呼ばれる一群の物質でした。炭素が長くつながった鎖に、メチル基(炭素1個と水素3個のかたまり)が枝のようについた化合物で、昆虫の体表をおおうロウ質の成分としてはありふれたものです。ただ、女王ではこれが目立って多くなっていました。
効き目を確かめるため、チームはこの物質だけを娘バチに当てる実験をしています。すると母親がその場にいなくても、娘は働きバチに特有の、控えめなふるまいを見せました。さらに調べると、卵をつくる器官の発達が抑えられ、繁殖に関わるホルモンの量も変わっていました。においそのものが、娘の行動と体の両方を変えていたことになります。
なお、こうした候補物質を人工的に合成して試す作業には、カリフォルニア大学リバーサイド校と福井大学の化学者が協力していたと、STRIは以前の紹介記事で伝えています。
嘘をつけないシグナルの仕組み
女王フェロモンをめぐっては、長く二つの見方がぶつかってきました。一つは、女王が化学物質で娘を「支配」し、娘にとっては損な役回りを押しつけているという見方。もう一つは、フェロモンは女王の繁殖力を正直に伝える看板にすぎず、それを読んだ娘が自分にとって得な方を選んでいるという見方です。研究チームが確かめたかったのは、このどちらに近いのかでした。
結果はこうなりました。メチルアルカンをたくさん出している女王ほど、そのあと実際に多くの卵を産んでいた。そして巣の中のフェロモンの量が多いほど、娘は残って手伝う側を選んでいた。においの強さは、その女王がこれからどれだけ産めるかを言い当てていたわけです。
なぜ誇張が効かないのか。キングウェル氏によると、メチルアルカンを作るには食べ物から取り込む特定のタンパク質が必要で、それは卵を作るのにも欠かせない材料でもあります。材料が共通なので、においにたくさん回せるのは、そもそも卵をたくさん産める女王だけ。栄養状態のよくない女王が「私はよく産みます」と偽ることが、体のつくり上できないのです。
娘の側から見れば、においの強さは「この母親に付き合えば、自分の遺伝子がどれだけ残せそうか」を測るものさしになります。看板に嘘がないと分かっているから、それを頼りに進路を決められる。つまり、この広告の正直さを担保しているのは母バチの誠実さではなく、材料が足りないという物理的な制約でした。

社会性の進化への示唆
柔軟な社会性をもつ昆虫で女王フェロモンの中身が特定されたのは、研究者らの知るかぎり今回が初めてだといいます。女王フェロモンそのものはミツバチやアリ、ほかのコハナバチの仲間でも見つかっていますが、それらはいずれも役割が固定された種。群れでも単独でも暮らせる種で突き止められた例はありませんでした。
役割がかっちり決まった社会は、いきなりできたわけではありません。手伝うかどうかを毎回選べる段階から始まって、少しずつ固まっていったはずです。その最初の段階で、化学的なやりとりが「協力する価値はあるか」の判断材料として働いていたのなら、フェロモンには、生まれたばかりの昆虫社会をつなぎとめ、複雑な社会が育つまでの時間を稼ぐ役目があったのかもしれない——ウィスロ氏はそうした見方を示しています。
協力が成り立つかどうかは、もちろん昆虫だけの話ではありません。相手に投資する価値があるかを何を手がかりに判断するのか。その手がかりがにおいという分かりやすい形で特定されたことは、動物行動や社会のなりたちを考えるうえでの足がかりになりそうだと、キングウェル氏は述べています。
研究に加わっていないドイツの進化生物学者アイリス・シュタイツ氏は、個体ごとの化学物質と行動の違いから、その物質ができる経路まで押さえていて、話として筋が通っていると評価しています。役割分担が単純な段階の種を調べることは、女王フェロモンがどう進化してきたかを知るうえで有用だ、とも述べています。
解釈上の留意点
まず、擬人化に引きずられないこと。この話は「母が娘を操っている」とも「娘が母を値踏みしている」とも読めます。今回の結果は正直なシグナルという見方を後押しする方向ですが、同じフェロモンが娘の生殖器官の発達を実際に抑えてもいます。抑え込みと情報の伝達は両立していて、どちらの側面を重く見るかは、いまも研究が続いているテーマです。
「初めて」の範囲も押さえておきたいところです。女王フェロモンそのものが初めて見つかったわけではありません。今回が初めてなのは、社会性が固定されていない昆虫で中身まで特定された、という部分です。
もう一点、調べられたのはバロ・コロラド島の集団だということ。この種は中南米に広く分布しているので、ほかの地域でも同じように働いているかどうかは、これから確かめられていく部分になります。


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