割れずに残った400年前の器——フロリダの伝道所跡で学生が掘り当てる

歴史・考古学
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フロリダ大学の考古学実習で、学生たちが約400年前の土器を掘り当てた。手のひらに載るくらいの小さな器で、灰色のなめらかな表面に飾りはなく、縁がわずかに外へ開いている。特筆すべきは、それが割れずに、完全な形のまま出てきたことだ。

土器はふつう、破片で見つかる。地中で数百年も圧力を受け、開発や耕作で土が動くうちに、たいていは考古学者の手に渡るずっと前に壊れてしまう。フロリダ自然史博物館で歴史考古学のコレクションを管理するギフォード・ウォーターズ氏は、沈没船の資料では完全な品を扱ってきたものの、陸の発掘現場で無傷の土器が出る場に居合わせたのは、これがキャリアで初めてだという。

そして、この器が埋まっていた場所には、先住民・スペイン・イングランドという三つの勢力の歴史が層になって積み重なっている。

割れずに出てきた小さな器

見つかったのは、粘土をこねて作られた小ぶりな器で、大人の手のひらにすっぽり収まる大きさだ。表面はくすんだ灰色に整えられ、模様も装飾もない。縁の部分にだけ、指でつまんで折り返したような細い作りが残っている。

作ったのはポターノの人と見られている。ポターノは、フロリダ北部に暮らしていたティムクアという先住民の一グループだ。

ウォーターズ氏はこの出土を「とても珍しい」と表現している。発掘で出てくるのは、たいてい割れて捨てられたものだからだ。まだ使える状態で捨てられた土器であっても、長い年月のあいだに地中で圧をかけられ、土の動きに巻き込まれて、原形をとどめないまま掘り出されることのほうがはるかに多い。

三つの勢力が重なった土地

器が出たのは、ゲインズビル北西部の林の中にある「サンフランシスコ・デ・ポターノ伝道所」の跡地だ。この場所の来歴は、そのまま17世紀フロリダの縮図になっている。

ポターノの人々がここに村を構えたのは1585年。もともとはペインズ・プレーリーとオレンジ湖のあいだあたりに暮らしていたが、スペイン勢力に押し出されて移ってきたと考えられている。つまり、この村はできた時点ですでに、植民地化の圧力が生んだ移動の結果だった。

1606年、スペイン政府はこの村に修道士を一人送り込み、カトリックの伝道所を置いた。以後100年のあいだにフロリダには100か所を超える伝道所が作られていくが、その最初期の一つがここだった。伝道所は信仰の場であると同時に、スペインの支配を現地で支える装置でもあった。首都セントオーガスティンから西へ延びる「エル・カミノ・レアル(王の道)」に沿って人と物資が動き、その先に伝道所が点在していた。

スペインの伝道所には二種類あった。修道士が住み込む大きなものを「ドクトリーナ」、そこから修道士が折々に訪れるだけの小さなものを「ビシタ」と呼ぶ。サンフランシスコ・デ・ポターノは前者にあたる。規模の大きな先住民の村にドクトリーナを置き、その集団の首長を改宗させる——というのが、当時のスペイン側の常套手段だった。村の最盛期には数百人のポターノの人々が暮らし、ヨーロッパ人はその修道士ただ一人だったとされる。

1656年、ティムクアの人々がスペインの統治に対して反乱を起こし、伝道所はいったん放棄される。反乱が鎮圧されると、数年のうちにスペイン側が再建した。そして1706年、伝道所は最終的に打ち捨てられる。1700年代初頭にイングランド側による伝道所への襲撃が激しくなったことがその背景にあり、スミソニアン誌はこの終わり方を「イングランドの襲撃隊による破壊」と伝えている。博物館側の発表も、襲撃が強まったあとにこの場所へ小規模な守備隊が送られた記録が残っていることに触れている。

2006年から続く発掘の蓄積

伝道所の記憶は、その後長いあいだ失われていた。1950年代に遺物が地表に現れはじめて、ようやく場所が知られるようになる。本格的な発掘が始まったのは2006年で、以来7000点を超える出土品が記録されてきた。

その大半は先住民の土器の破片だ。村に住んでいたのがほぼポターノの人々だったことを考えれば、当然の内訳と言える。ほかにガラスビーズ、石器、釘、鈴、宗教用のペンダント、それにカメや淡水魚、シチメンチョウなどの動物の骨が出ている。

骨の多くは同じ一角にまとまって出土しており、そこが調理場とごみ捨て場だったと見られている。ウォーターズ氏が重く見るのもこの点だ。遺物そのものより、それがどこにあり、どう散らばり、何と一緒に出たか。その配置が遺跡の物語を組み立てる、という考え方である。

発掘の担い手は学生だ。ウォーターズ氏と、同館で歴史考古学のキュレーターを務めるチャールズ・コブ氏が受け持つ実習で、春学期のあいだ毎週金曜に現場へ通う。林の中には1メートル四方の発掘区画が点々と並び、その下には17世紀の台所や修道士の住居、そしてポターノの村の跡が眠っている。

用途をめぐる手がかりと空白

出土した深さと場所から、この器は伝道所が機能していた100年ほどのあいだに作られたと考えられている。ただし、その様式は考古学者たちが見慣れないもので、どこの、どういう伝統につながる作りなのかがはっきりしない。

用途の手がかりも乏しい。煮炊きに使われた土器なら、内側に焦げた食べ物と炭がこびりついていることが多いが、この器にはそれがない。火にかけて調理する道具ではなかったらしい。

外側にはうっすらと焦げ跡がある。ただしこれは、粘土を焼き固めて器に仕上げる工程でついたものかもしれないし、火のそばに置いて一人分の食べ物を温めたときのものかもしれない。どちらとも決めきれていない。

見つかった場所にも含みがある。器はスペイン人が建てた建物の内部から出た。その建物が何に使われていたかは、さらに掘り進めないと分からない。ただ、近くから銃の照門(しょうもん、狙いをつけるための後ろ側の部品)とマスケット銃の側板(そくばん、銃の側面につく金具)が出ていること、そして1700年代初頭に小さな守備隊がこの地に送られた記録があることから、兵舎だった可能性が考えられている。

そして、いちばん大きな謎が残っている。まだ使える器を、なぜわざわざ穴に入れて置いていったのか。ウォーターズ氏自身がその点を問いとして口にしている。壊れたから捨てた、という説明が通らないぶん、答えの見当がつかない。

同時に見つかった大型土器の破片

小さな器が出てまもなく、学生たちは同じ発掘区画から、ずっと大きな別の土器の破片を掘り出した。こちらは表面がざらついていて、材料の配合も地元の土器の作り方に沿っていない。

考古学者たちは、セントオーガスティンや現在のジャクソンビル周辺の集団との交易で持ち込まれたか、あるいは別の土地から移り住んできた人が、自分たちの作り方とともに持ってきたものではないかと見ている。

伝道所の後期には、フロリダの各地から人が移動し、この村に流れ込んでいた。ウォーターズ氏は、遺物に現れるそうした違いとつながりに、伝統が受け継がれる側面と変わっていく側面の両方が見えるところが面白い、と話している。一つの村の土の中に、押し出されてきた人、留まった人、新しく入ってきた人の痕跡が混ざり合っている。

解釈上の留意点

いくつか距離を置いて読んでおきたい点がある。

まず、これは査読を経た論文ではなく、フロリダ自然史博物館による発表段階の情報だ。器そのものの分析はこれからで、様式・用途・年代の細かい部分は今後変わりうる。

「一つの器が三者の衝突を物語る」という言い方も、厳密には器が語っているわけではない。語っているのは、それが埋まっていた土地の履歴のほうだ。器自体から分かっているのは、400年ほど前にポターノの人が作ったらしい、というところまでで、その先はまだ空白のままである。

そして、この場所の歴史は「発見の物語」だけで語れるものではない。ポターノの人々がここに移ってきたのは押し出された結果であり、伝道所は改宗と支配のための施設でもあった。その終わりも、襲撃と、そこから逃れる人々の移動の中で訪れている。小さな器一つの背後にあるのは、そうした出来事の積み重ねだ。

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