ロンドンのハーレー街にある手術用コンソール。そこに座った外科医の手元の動きが、光ファイバーを通じて2,400km先へ届き、地中海の入り口にあるジブラルタルの手術ロボットがそのとおりに前立腺を切除していく。2026年3月、英国で初めての長距離遠隔ロボット手術が実際におこなわれた。執刀した医師と、麻酔をかけられた患者のあいだには、1,500マイル(約2,400km)の距離があった。
報じたのはBBCをはじめとする英国の主要メディア。医療とネットワーク技術がここまで結びついた事例として、大きく取り上げられた。

ロンドンの医師とジブラルタルの患者
執刀したのは、ロンドンの民間病院The London Clinicでロボット手術部門を率いるプロカー・ダスグプタ(Prokar Dasgupta)教授。泌尿器科のロボット手術を専門とする第一人者だ。手術を受けたのは、前立腺がんと診断された62歳のポール・バクストンさん。もともとイングランド南西部サマセットのバーナム・オン・シーの出身で、40年前にジブラルタルへ移り住んだ英国人だ。
ジブラルタルは英国の海外領土だが、島内の病院はセント・バーナーズ病院ただ一つ。複雑な治療が必要な住民は、英国本土まで渡って治療を受けることが多い。バクストンさんも、クリスマス直後にがんが見つかった当初は、NHS(英国の国民保健サービス)の順番待ちリストに入り、イングランドまで移動して手術を受けるものと考えていた。
使われたのは、上海のマイクロポート社が手がける手術支援ロボット「Toumai(トゥーマイ)」。3D高精細カメラと4本のアームを備えたシステムで、外科医はコンソールから、まるでその場にいるかのように器具を操作する。ダスグプタ教授は術後、「まるで自分がそこにいるかのようだった」と語っている。
0.06秒に抑え込んだ通信の遅れ
遠隔手術で最大の壁になるのが、術者の手の動きがロボットに伝わるまでの「遅れ(レイテンシ)」だ。切開の最中に指示が一瞬でも遅れて届けば、それは命に関わる。今回の手術で計測された遅延は、わずか0.06秒。60ミリ秒である。
この低遅延を支えたのが、メインの光ファイバー回線と、バックアップの5G回線という二重の通信網だ。回線構築には技術サービス企業のプレシディオ社が関わった。さらに、万一通信が途切れた場合に備えて、ジブラルタルのセント・バーナーズ病院には現地の手術チームが待機し、いつでも手術を引き継げる態勢が組まれていた。ロンドンからの操作で完結させつつ、現場には安全網を残しておく、という設計である。
「移動しなくていい」を選んだ患者
バクストンさんがこの遠隔手術を選んだ理由は明快だった。本人いわく「考えるまでもなかった(no-brainer)」。従来どおりなら、複雑な手術のために本土へ渡り、順番待ちを経て治療を受けることになる。その時間も費用も移動の負担も、遠隔手術なら省ける。
周囲からは「本当にやるのか」と何度も念を押されたという。それでもバクストンさんは「自分が何かを返せる場面だと思った」と、治験の第一号として名乗りを上げた。術後4日で「絶好調だ」と話し、自らを進んで「実験台(guinea pig)」になったと表現している。サッカー好きらしく、ジブラルタルの手術環境が「チャンピオンシップからチャンピオンズリーグに上がったようなものだ」とも語った。
「世界初」ではなく「英国初」
この手術は、あくまで英国から実施された初の長距離遠隔手術だ。遠隔手術そのものは世界初ではない。生体患者への大西洋横断遠隔手術は2001年にすでに例があり、その後も各国のチームが同種の試みを重ねてきた。今回の意義は「世界で誰も成し遂げていないこと」ではなく、英国の医療現場で、実際の患者を相手に、この距離で成立させたという臨床上の一歩にある。誇張された「世界初」の見出しには、少し距離を置いて読んだほうがいい。
それでも、この一件が示す方向性は大きい。専門医が限られた地域や、島や離島のように高度な医療機関が近くにない場所でも、通信さえつながれば一流の術者の技術を届けられる。ダスグプタ教授は「この技術があれば、最高の外科医をどこへでも連れて行ける」と語り、遠隔手術がもたらす人道的な意義は小さくないと強調した。
使われたToumaiシステムは、その後2026年6月にEUの販売許可(CEマーク)を取得しており、遠隔手術を普段づかいの医療にしていく動きは、この一件を境に少しずつ現実味を帯びはじめている。今後も、こうした医療とテクノロジーが交わる話題を取り上げていきたい。


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