87年ものあいだ、多くの数学者が「たぶん正しい」と思ってきた予想があります。ヤコビ予想といいます。それが2026年7月20日、Xに投げられた短い投稿ひとつで崩れました。投稿に載っていたのは3行の数式と、その式に入れると同じ場所に飛んでしまう3つの点だけ。式を見つけたのは、AnthropicのAIモデル Claude Fable 5 でした。
ただし「AIが独力で数学の難問を解いた」という話ではありません。問題を選び、探す方向を決め、出てきた式を数学として意味づけたのは人間の数学者です。そこを分けて見ないと、この一件は正しく伝わりません。
ヤコビ予想の中身
多項式というのは、xやyといった文字を足したり掛けたりして作る式のことです。x² + 3xy のような、分数や平方根が出てこない素直な式だと思ってください。
この多項式をいくつか組にすると、空間の点を別の点へ動かす「変換」になります。3つの多項式を組にすれば、3次元空間の点 (x, y, z) を受け取って、別の3次元の点を返す機械ができあがります。
その機械が空間をどう扱っているかを見る道具が、ヤコビ行列式(各変数で微分した値を並べた行列の行列式)です。ある点のごく近くで、変換が空間をどれだけ伸ばすか、縮めるか、つぶすかを表す数字にあたります。これがゼロになる点では空間がぺしゃんこに潰れていて、そこでは元に戻せません。逆に、どこでもゼロでない一定の値をとるなら、どの点の近くでも潰れは起きていないことになります。
ここまでは微分積分の教科書に載っている話で、逆関数定理という定理が「ヤコビ行列式がゼロでなければ、その点のまわりでは必ず元に戻せる」と保証しています。問題は、この「点のまわりでは」を「空間全体でも」に広げられるかどうかでした。
散歩にたとえると分かりやすいかもしれません。足元だけ見て歩いているぶんには、いつでも前に進んでいて、同じ場所を二度踏んではいません。でも上空から眺めれば、道は大きく輪を描いて、さっき通った地点と交わっているかもしれない。近くで見て分かることは、全体について何も保証しないわけです。
ヤコビ予想は、「多項式で書けている」「ヤコビ行列式がゼロでない定数」という2つの条件が十分に強いので、全体でも重なりは起きないはずだ、と主張していました。しかも元に戻すための逆変換まで、やはり多項式で書けるはずだ、と。

この形にまとめたのは、ドイツの数学者オット=ハインリヒ・ケラーで、1939年のことです。1変数の場合は早くに片づいたものの、2変数以上はどの次元も未解決のまま残りました。スティーヴン・スメイルが1998年に挙げた「21世紀の18の数学問題」にも、16番目として入っています。証明したという論文が何度も出ては誤りが見つかる、という歴史でも知られる問題でした。
ちなみに、原型はもっと古いことが最近わかっています。2026年6月に Comptes Rendus Mathématique に載った歴史研究によれば、2変数の場合の主張はすでに1884年にルートヴィヒ・クラウスが書いていて、その論文に添えられた証明も、やはり最後の一歩で間違っていました。
示された反例
レヴェント・アルピョーゲ氏が示したのは、3つの多項式を組にした変換です。
a = (1+xy)³z + y²(1+xy)(4+3xy)
b = y + 3x(1+xy)²z + 3xy²(4+3xy)
c = 2x − 3x²y − x³z
計算は面倒ですがやること自体は単純で、この組のヤコビ行列式は、どの点でもきっかり −2 になります。ゼロでない定数ですから、予想の前提はきちんと満たしています。
ところが、次の3つの点
(0, 0, −1/4) (1, −3/2, 13/2) (−1, 3/2, 13/2)
を入れると、どれも同じ点 (−1/4, 0, 0) に飛びます。行き先が同じなら、そこから元の場所をひとつに決めることはできません。この変換は、多項式どころか、どんな関数を持ってきても全体では戻せないということになります。
しかもこれは、特殊な点でたまたま起きた重なりではありません。数学者のデイヴィッド・スパイヤー氏が指摘しているように、この変換はほとんどの行き先について3つの点が対応します。空間全体が三重に折り重なった状態で写っている、というわけです。

これで予想は3次元で崩れました。4次元以上も、残りの座標を動かさないまま付け足すだけで同じ反例が作れるので、3以上のすべての次元で偽だということになります。ケラーが最初に考えた2変数の場合だけが、いまも残っています。
AIが担った範囲
Xの投稿には、問題を持ちかけてくれた友人アキール(シカゴ大学のアキール・マシュー氏)と、「ワールドカップ決勝の最中に働いてくれたもう一人の友人 fable」への謝辞が並んでいました。fable は Claude Fable 5 のことです。アルピョーゲ氏自身も、Anthropicとハーバード大学に籍を置く数学者です。
どんな指示を与え、モデルがどんな出力を返したのか、その詳細は公開されていません。ですから「AIがどこまでやったのか」は、いまのところ外からは正確に測れないというのが実際のところです。
分かっているのは、探す方向を決めたのも、出てきた式を数学として読み解いたのも人間だということ。ポーランドのアダム・ミツキェヴィチ大学のバルトシュ・ナスクレンツキ氏は、この種の反例探しは干し草の山から針を探すようなもので、単純な指示ひとつで出てくるものではない、とXに書いています。
一方で、モデルが果たした部分も小さくありません。ヤコビ予想の反例は、条件を満たす候補を膨大に試さないと見つからない類のもので、そこは人が最も苦手とする作業でした。つまり今回起きたのは、AIが数学者に取って代わったことではなく、数学者が手を伸ばせる範囲がAIのぶんだけ広がったこと、と読むのが近そうです。
数学者たちの反応
ロンドン大学クイーン・メアリー校のアビシェーク・サハ氏は New Scientist に対し、これは相当大きな出来事で、AIが数学の予想の証明や反証に本格的に関わった例としてはおそらく最大のものだ、と話しています。
フィールズ賞受賞者のティモシー・ガワーズ氏も、自分の専門外で、しかも名前を知っているほど有名な問題をLLMが解いた初めての例だと反応しました。ただし見つかったのは反例であって「数学の終わり」ではない、とも付け加えています。
冷静な見方もあります。コロンビア大学のアンドリュー・ブランバーグ氏は Mashable に対し、反例をひとつ見つけることは、予想を証明することに比べればずっと軽い、と指摘しました。今回わかったのは主に、多項式は膨大にあって人間だけでは調べきれない、ということだ、と。
ブランバーグ氏はこんな言い方もしています。モーセが山から下りてきて、石板に「がんは治せる」とだけ書いてあったとして、それを知りたいだろうか。人が欲しいのは答えそのものだけではなく、答えから何かを学ぶことだ、と。スメイルがこの問題を重要だと考えたのも、解ければ自然の成り立ちについて何かが分かると思ったからでした。
問題を持ちかけたマシュー氏自身も、この変化は非常に速くて落ち着かない、特に若手の数学者にとってはそうだ、と Fortune に語っています。反例は「どうなっているか」を示しますが、「なぜそうなるか」は語りません。正しいことは確認できても、そこから筋の通った話を組み立てられるといいのだが、というわけです。
SNS発という発表形態
この件のもうひとつの見どころは、発表の形そのものにあります。
査読誌でもなければ、arXivのプレプリントですらなく、数式が載った短いSNS投稿がすべてでした。それが数時間のうちに世界中の数学者に読まれ、各自の計算ソフトで確かめられ、翌日には検証の内容をまとめた文書が出回っています。7月21日には英語版Wikipediaのヤコビ予想の項目が書き換えられ、「反証された予想」の分類に移されました。Wolfram のオンライン数学事典 MathWorld も、反例と3つの点を載せる形に更新されています。
この速さが成り立ったのは、反例が短かったからでもあります。式は3行、確かめるべきは行列式ひとつと点3つ。その気になれば数分で検算できます。正しさを追うのに何十ページも読まなければならない結果だったら、こうはいきませんでした。
波及もすでに始まっています。ヤコビ予想と同値であることが知られていたディクスミエ予想も、これで崩れることになります。関連する「像予想」「消滅予想」についても同じことが言える、という指摘が出ています。
受け取るときの留意点
派手な話なので、いくつか補足しておきます。
まず、この結果はまだ査読を通っていません。計算そのものは複数の数学者が独立に確かめていて、そこに疑いはほとんど残っていないものの、正式な論文として発表され審査を経た段階には至っていない状態です。
次に、反例を見つけることと予想を証明することは別の作業だ、という点。今回崩れたのは「すべての次元で成り立つ」という形の主張で、ケラーが最初に考えた2変数の場合は手つかずのまま残っています。そちらのほうがむしろ難しいのではないか、という声もあります。
そして、AIがどう使われたかの詳細が公開されていない以上、「AIが自力で解いた」という言い方はできません。少なくとも問題の選定、探索の方向づけ、結果の検証は人が担っています。
なお、5月にOpenAIのモデルがエルデシュの単位距離予想を反証した際には、16人の数学者が「ライデン宣言」を出しました。AIを使ったなら開示すること、先行研究に正しく敬意を払うこと、結果は査読のある場に出すこと、そして数学界が評価する前に主張を広めないこと。国際数学連合も支持しているこの宣言に照らすと、今回のSNS先行という形は、求められている手順とはだいぶ違います。その是非も含めて、いま議論されているところです。
出典
- A.I. Disproves a Decades-Old Mathematical Idea(Smithsonian Magazine)
- レヴェント・アルピョーゲ氏によるX投稿(2026年7月20日)
- Jacobian Conjecture(Wolfram MathWorld・反例と3点を掲載)
- Locally everywhere does not imply everywhere(John D. Cook)
- The new counterexample to the Jacobian conjecture(Secret Blogging Seminar)
- なぜ小さなSNS投稿が数学者にAIを考え直させているのか(The Conversation)
- On the origin of the Jacobian conjecture(1884年のクラウス論文をたどった歴史研究)
- 数学者たちの反応まとめ(OfficeChai)
- Leiden Declaration on Artificial Intelligence and Mathematics


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