警報が鳴ったのが朝5時48分、市の警察が着いたのが5時53分。差し引き5分である。それでも、ルノワールの絵が2点、持ち去られた。
2026年9月8日の早朝、南フランスのカーニュ=シュル=メールにあるルノワール美術館に2人組が押し入った。ここはピエール=オーギュスト・ルノワールが晩年の12年を過ごした家で、彼のアトリエや車椅子がそのまま残っている。犯人は敷地の金網を切り、窓ガラスを割って建物に入り、壁にかかった絵の額を留めていた金具を切断して4点を外した。ところが警報で警察が向かっていることに気づき、逃げる途中で2点を庭に捨てていった。回収されたのが《ステファン・ピション夫人の肖像》と《本を読むココ》、いまも行方が分からないのが《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》と《井戸の若い女》である。
ここまでが事件の骨組みで、フランス文化省が同日に出した発表と市長の記者会見の内容はほぼ一致している。ただ、盗まれた2点の来歴を追っていくと、この絵が「消える」のは今回が初めてではないことが分かる。
5時48分から5時53分までの出来事
市長のブライアン・マッソン氏によると、犯人が持っていたのは電動ナイフか金属用の鋸で、それで額を固定するボルトを切っていた。市の防犯カメラには、金網を切って庭に入り、ガラスを割る2人の姿が写っている。侵入の手口は乱暴だが、狙いは正確だった。マルセイユの検察は、外された4点が「この美術館でもっとも価値の高い4点」だったと説明している。市役所も犯人を「明らかに組織立っていて、装備を整え、下調べをしていた」と表現した。
マッソン氏は、館内にあるルノワールの絵12点のうち、犯人が外せたのは4点だけだったと述べている。館内の警報と警察のサイレンで犯人が慌てたためで、その慌てぶりが、庭に捨てられた2点という形で残った。捨てられていたのは敷地内の庭で、2点の状態確認は司法警察が行うことになっている。
被害額は、出所によって数字が揺れている。事件の朝、市は4点まとめて900万ユーロという見積もりを出した。その後2点が戻ったため、市は残り2点の評価額を明言していない。CNNの取材に対しては副市長のカロリーヌ・ダマ氏が、《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》は230万ドル超、《井戸の若い女》は約23万ドルと答えている。どの数字も市側の見積もりで、保険や競売の評価ではない。

ルノワール最後の家に置かれていた絵
ルノワール美術館は、いわゆる大型美術館ではない。1907年、リウマチで体が動かなくなりつつあったルノワールが、医師の勧めで暖かい南仏に移り、オリーブとオレンジの木が生える丘の上の土地を買って建てた家である。彼はここで、助手に筆を手に握らせてもらいながら1919年に亡くなるまで描き続けた。1960年に息子のクロードが家を市に売り、市が美術館にした。所蔵は油彩が13点、彫刻が約40点、それに写真や手紙、家具など。館の資料によれば収蔵庫がなく、持ち物のほとんどは常に展示に出ている。
今回狙われた4点は、この美術館のものではない。パリのオルセー美術館が1995年から預けている作品で、館内の「ガニャの部屋」と呼ばれる一室にまとめて展示されていた。「企画展のための貸し出し」と伝えた報道もあったが、文化省の発表とオルセー側の記録を見るかぎり、30年以上前から続く長期の寄託である。オルセーの記録をさかのぼると、《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》は1950年代からニースの美術館を転々とし、1995年にこの家に落ち着いた。つまり犯人は、ルノワールが実際に暮らした家から、ルノワールの絵を持ち出したことになる。マッソン氏が「ルノワール美術館を襲うことは、カーニュ=シュル=メールの歴史と遺産の一部を襲うことだ」と述べたのは、この文脈である。
持ち去られた2点のうち、《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》は94×74センチの油彩で、モデルはコメディ・フランセーズの女優ガブリエル・コロンナ=ロマーノ。ルノワールが晩年に何度も描いた人物である。市の資料では1910年ごろ、オルセー側の記録では1913年ごろの作とされる。もう1点の《井戸の若い女》は1886年ごろの作で、板に描いた35×27センチの小品。オルセーの記録には「未完成」とある。こちらは画商アンブロワーズ・ヴォラールのコレクションにあったことが分かっている。
盗まれた2点に付いていた記号
ここからが、この事件の少し変わったところである。
文化省の発表には、狙われた4点のうち3点が「MNR」に分類されていると書かれている。MNRはMusées Nationaux Récupération(国立美術館回収品)の略で、第二次世界大戦中にドイツへ渡り、戦後フランスに戻ってきたものの、持ち主が特定できなかった美術品に付けられる記号だ。1949年の政令で作られた制度で、国はこれらを「仮の預かり手」として保管し、正当な持ち主や相続人が現れれば返す義務を負う。オルセーが持つ4点のうち、持ち去られた2点はどちらもこのMNRである。
《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》の番号はMNR 204。文化省が公開しているデータベースに、この絵の戦時中の動きが記録されている。ルノワールの死後もアトリエに残っていたこの絵は、1939年3月にパリの画商ラファエル・ジェラールが遺産相続人から10万5000フランで買い、翌1940年9月、ドイツ占領下のパリで在仏ドイツ大使館に50万フランで売られた。ある証言では、ヨアヒム・フォン・リッベントロップのために買われたのではないかという。その後ケルンの画廊を経てドイツ人の手に渡り、戦後ブレーメンで押収されて、1947年6月、バーデン=バーデンからの最初の返還便でフランスに送り返された。1950年にルーヴル美術館に割り当てられ、のちにオルセーの管理に移っている。
《井戸の若い女》はMNR 579。こちらの記録はもっと曖昧で、ドイツの闇市場買い付け組織「オットー」が買ったのか、その組織の責任者だった親衛隊員がフランスで押収したのか、はっきりしない。分かっているのは、1949年にバイエルンの個人宅で同じ出どころの絵の束と一緒に見つかり、ミュンヘンの集積所を経て同年6月にフランスへ戻ったことである。
データベースは、それぞれの絵に判定を付けている。《コロンナ・ロマーノ夫人の肖像》は「略奪ではないと確認された作品」。売買の記録が残っているからで、1975年に「父の持ち物だった」と名乗り出た人がいたが、戦前に取得した証拠がなく、認められなかった。《井戸の若い女》は「現時点の調査では、略奪された可能性が高い作品」。持ち主が見つかっていない点は同じでも、経緯の判定は分かれている。
要するに、犯人が壁から外して持ち去った2点は、80年前にも一度フランスから消え、戻ってきてからも「誰のものか」が決着していない絵だった。国が仮に預かっているものを、今度は別の誰かが持ち去った。二重に持ち主のいない絵である。

捜査の行方と、売れない絵の問題
捜査は当初グラースの検察が担当していたが、組織犯罪を扱うマルセイユの検察に移され、アルプ=マリティーム県の司法警察と、文化財の不正取引を専門に追うOCBC(文化財不正取引取締中央局)が担当している。犯人の特定には至っていない。
盗まれたのが有名画家の作品であることは、犯人にとって必ずしも有利ではない。絵画の窃盗は宝飾品より少ないと言われるのは、金やダイヤモンドと違って溶かして売れず、作品そのものが目立つからである。しかも今回の2点は、写真、寸法、裏面のラベルや刻印の一つ一つまで、国のデータベースに公開されている。額を外して持ち歩けるほど小さい《井戸の若い女》でも、板の裏に書かれた番号まで記録が残っている。表の市場に出た瞬間に足がつく絵である。
一方で、盗まれた絵が長い時間をかけて闇に沈み、そのまま出てこないことも多い。1990年にボストンのガードナー美術館から13点が消えた事件は、いまも未解決のままである。文化省の発表は、盗まれた2点を「引き続き積極的に捜索中」とだけ書いている。
フランスの美術館に残った宿題
フランスでは、この1年ほど美術館を狙った事件が続いている。昨年のルーヴル美術館の宝飾品盗難、今夏のラリック美術館の被害など、いずれも大きく報じられた。マッソン氏は、地方の美術館が「ますます組織化され、決意を固めた犯罪者」に単独で対抗するのは難しいとして、国の支援を求めている。
文化省の側にも動きはある。カトリーヌ・ペガール文化大臣は事件当日の発表で、7月に打ち出した美術館セキュリティ計画に触れた。3000万ユーロの基金で全国482か所の優先工事を支援し、省のセキュリティ担当部門による抜き打ちの訪問を義務化し、国立美術館が作品を貸し出す際にはその部門の承認を必須にする、という内容である。今回の4点のように、パリの大型館から地方の小さな館へ長期に預けられている作品は全国に多い。貸し出し先の警備をどこまで見るかは、これから決まっていく。
そして、MNRの絵にはもう一つの宿題が残る。この2点が戻ってきたとき、返される先はオルセー美術館であって、絵の「持ち主」ではない。持ち主はまだ分かっていないからだ。5分で警察が来ても2点が消えたという事件の裏には、80年かけても持ち主が見つからない絵がある。捜索が続いているのは、犯人だけではない。
出典
フランス文化省 プレスリリース(2026年9月8日): Vol au musée Renoir de Cagnes-sur-Mer
Smithsonian Magazine(2026年9月8日、Sonja Anderson): Thieves Broke Into a French Museum and Made Off With Renoir Paintings Worth More Than $2.5 Million
franceinfo(2026年9月8日): Ce que l’on sait du cambriolage au musée Renoir de Cagnes-sur-Mer
オルセー美術館 作品記録: Portrait de Madame Colonna Romano / Femme au puits
フランス文化省 ローズ・ヴァランMNRデータベース: MNR 204 Portrait de Mme Colonna Romano / MNR 579 Femme au puits
カーニュ=シュル=メール市立美術館: Jeune femme au puits


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