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イェール大学の貴重書図書館に、100年以上誰にも読めていない本があります。ヴォイニッチ写本と呼ばれる15世紀の羊皮紙の本で、見たことのない文字がびっしり書かれ、植物や裸の女性、星の絵が添えてあります。暗号なのか、未知の言語なのか、それともでたらめなのか。その答えはまだ出ていません。2026年に Digital Medievalist 誌に載った論文は、文字を読む代わりに、本の「作り」を調べました。そして、この本はそもそもふつうの本として綴じるつもりで作られたものではなく、読めない誰かが15世紀に順番を間違えて綴じてしまったのではないか、という説を出しています。
読めない本の、読めない以外の変なところ
ヴォイニッチ写本(正式にはイェール大学バイネッキ貴重書図書館 MS 408)は、羊皮紙の放射性炭素年代が1404〜1438年に収まる中世の本です。1912年に古書商の Wilfrid Voynich が手に入れ、1969年からイェール大学にあります。現存するのは240ページで、未知の文字は約38,000語ぶん。研究者のあいだでは「ヴォイニッチ語」と呼ばれています。
この本を調べているのが、中世学会(Medieval Academy of America)の事務局長で写本学者の Lisa Fagin Davis と、マルタ大学で情報システムを研究する Colin Layfield です。Davis は以前から筆跡を手がかりに「何人が書いたか」を調べていて、5人の書き手がいたと論じてきました。その作業の中で、文字以外にも変な点があることに気づきます。筆跡の交代のしかたが、本の順番として意味をなさないのです。
もうひとつは絵です。78枚目の葉の裏(f. 78v)の綴じ目の近くに描かれた2本の水流は、綴じ目を越えて、何枚も先の81枚目の葉の表(f. 81r)に続いています。ほかにも、しみ、青い花びら、葉の緑、ニンフの右腕が、綴じ目をまたいで離れたページに出てくる例が4か所あります。
二つ折りの紙を重ねて綴じる、中世の本の作り方
この「離れたページに続く」の意味を知るには、中世の本の作り方を知る必要があります。子牛の皮をなめして薄くした羊皮紙は、まず長方形に切られます。ヴォイニッチ写本の場合は約225×320ミリで、1頭の皮から8枚ほど取れました。この1枚を半分に折ると、2枚の葉(フォリオ)がつながった「二つ折り(bifolium)」になります。ふつうは、この二つ折りを4〜5枚重ねて小さな冊子にし、これを「折丁(quire)」と呼びます。書いたり絵を描いたりするのは折丁にしてからで、最後に折丁を順に積んで背を糸で綴じ、表紙を付けて本になります。
二つ折りを重ねると、1枚の紙の左半分と右半分は、本の中では離れたページになります。たとえば二つ折り4枚の折丁なら、いちばん外側の紙の左半分は1枚目の葉、右半分は8枚目の葉です。ヴォイニッチ写本で絵が「綴じ目を越えて何枚も先に続く」のは、まさにこの関係にあるページどうしです。つまり、絵を描いた人にとっては、その2ページは地続きだったことになります。
筆跡についても同じことが言えます。Davis が筆跡を本の構造に重ねてみると、現存する52枚の二つ折りのうち50枚で、表裏4ページぜんぶが同じ書き手でした。例外は2枚だけです。植物の章では、書き手1の二つ折りと書き手2の二つ折りが、折丁の中で交互に重なっています。二つ折りを重ねてから書いたのなら、こうはなりません。1枚ずつ別々に書いて絵を描いてから重ねた、と考えるほうが自然です。
イェール大学の保存担当 Paula Zyats の調査では、この本は綴じ直された形跡がなく、最初の綴じは1400〜1500年ごろのものです。だとすると、いまの順番で綴じられたのは15世紀で、しかもそのときすでに順番は狂っていた。論文はこう結論します。「綴じた人は、この本を読めなかった」。
綴じるつもりのなかった本という仮説
2人の仮説はこうです。ヴォイニッチ写本は、二つ折りを重ねた折丁の本として作られたのではない。二つ折り1枚だけで完結する最小の折丁を写本学では「singulion」と呼びますが、この本は singulion を順に積み重ねた、綴じない紙の束として作られた。1枚の二つ折りは、表・裏・つながった右半分の表・その裏、という4ページを続けて読むものだった。
ページの順番が狂っているという指摘自体は、以前からありました。新しいのは、この説を文字の中身で検証したことです。使ったのは潜在意味解析(LSA)という、1990年に情報検索の分野で生まれた古い手法です。文書の集まりから単語の使われ方の関係を学び、2つの文章がどれだけ似ているかを点数にします。最近の大規模言語モデルを使わないのは、ヴォイニッチ語の文章が全部で約35,000語しかなく、小さなデータでも動く手法が要るからです。
ここで使うのは「文字の意味」ではなく「似た単語が使われているか」だけです。意味が分からなくても、同じ単語の並びが近いページどうしは点数が高くなります。2人はこれを、中世の本として順番が正しいと分かっている2冊、13世紀のアバディーン動物寓意譚と14世紀の『人類救済の鏡』で先に試しました。
見たのは3種類のページの組み合わせです。同じ葉の表と裏(confoliate)、本を開いたときに向かい合う左右のページ(facing)、そして1枚の二つ折りの左半分の裏と右半分の表(conjoint)。順番の正しい本なら、表と裏と、向かい合う左右は続けて読むので似ているはずです。一方、二つ折りの左右は本の中で離れているので、似ていないはずです。実際、2冊の既知の本では、表と裏の類似度と左右の類似度はほぼ同じで、二つ折りの左右だけが統計的にはっきり低く出ました。手法は正しく働いています。
同じことをヴォイニッチ写本の折丁9つでやると、結果が裏返ります。表と裏の類似度の平均が0.383、向かい合う左右が0.298、二つ折りの左右が0.433。離れているはずの二つ折りの左右がいちばん高く、続けて読むはずの向かい合うページがいちばん低い。統計検定でも、既知の本とは逆に、表裏と左右向かい合いの差が有意で、表裏と二つ折りの左右には差がありませんでした。二つ折り1枚が4ページ続きの単位で、いまの並びは本来の並びではない。論文はこれを「singulion 説を強く支持する」と書いています。
並べ直した浴場の章と星の章
では、元の順番は分かるのか。2人は、二つ折りの中身がまとまっている2つの章で試しました。裸の女性が水路でつながった浴槽に入っている「浴場」の章(第13折丁、二つ折り5枚)と、余白に星が並ぶ「星」の章(第20折丁、二つ折り6枚)です。二つ折りを重ねるのではなく順に並べるとして、5枚なら120通り、6枚なら720通りの並べ方ぜんぶについて、隣り合うページの類似度の平均を計算し、いちばん高い並びを探しました。
浴場の章では、いまの並びの0.461が0.517まで上がり(12.1%の改善)、浴槽の絵がよく似た2枚の二つ折りが隣に来ました。星の章では0.438が0.526に上がり(20%の改善)、並びの先頭に来たのは105枚目の葉の表でした。この章で唯一、大きな頭文字らしい文字で始まるページです。末尾は、もともと白紙だった116枚目の葉の裏になりました。章の初めと終わりとして、つじつまが合います。浴場の章の2番目の候補(7.1%の改善)も、同じように大きな頭文字で始まる76枚目の葉の表から始まっていて、2人はこちらが正解の可能性も残しています。

読めるようになるまで、確かめようがない
論文自身が、言い切れない点をいくつも挙げています。二つ折りの左右が似ていて向かい合うページが似ていない、という振る舞いには、偶然や、語彙が少なくて同じ単語が繰り返されやすいこと、定型文が多いことなど、別の説明もありえます。2人は「向かい合うページの低さまでは説明できない」としてこれらを退けていますが、未知の説明がある可能性は認めています。並べ直しの結果についても、「本当に読めるようになるまでは正しいと確かめられない」と書いています。試したのは2つの章だけで、植物の章は1ページごとに別の植物なので、そもそも正しい順番がないかもしれません。
7月にこの論文が公開されたあと、ヴォイニッチ研究者の掲示板では反論も出ました。折丁の番号が「間違った側」のページに書かれているのはなぜか、という問いに、Davis は番号は綴じる前の準備段階に書かれ、綴じた人が違う折り目に糸を通したのだろうと答えています。単語の共有でページを並べると、本の順番と関係なく滑らかな並びができてしまうのではないか、という指摘には、2人も同意したうえで、結果がはっきり出た2つの章しか扱っていないと応じています。
この研究が示したのは、文字が読めるようになったという話ではありません。文字を読む前に、ページの順番を疑う理由がある、という話です。1枚ずつ折った羊皮紙の束を、読めない人が本に綴じてしまった。もしそうなら、この100年の解読の試みは、シャッフルされた本を相手にしていたことになります。

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出典
- Colin Layfield and Lisa Fagin Davis, “Singulion Structure and the Voynich Manuscript”, Digital Medievalist 19 (2026)、オンライン公開 2026年7月10日、DOI 10.4000/16k0a:https://journals.openedition.org/digitalmedievalist/2331
- Live Science “Undeciphered Voynich manuscript may have been bound out of order, study finds”(2026年10月20日、Kristina Killgrove):https://www.livescience.com/archaeology/undeciphered-voynich-manuscript-may-have-been-bound-out-of-order-study-finds
- イェール大学バイネッキ貴重書図書館 “Beinecke Cipher (Voynich) Manuscript”:https://beinecke.library.yale.edu/beinecke/collections/beinecke-cipher-voynich-manuscript


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