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黒死病といえば、1347年から1353年にかけてヨーロッパを襲った一度きりの大災害、という覚え方が広く行き渡っています。人口の三分の一が消えた、あの数年間のことです。ところが、ペストを起こす細菌そのものの家系図をたどると、話はそこで終わりません。菌は消えるどころか、そのあと400年近くにわたってヨーロッパの中で枝分かれを続け、場所を変えながら流行を繰り返していました。
エストニアのタルトゥ大学を中心とする研究チームが、その400年ぶんの系譜を組み直した論文を『PNAS』に発表しました。
黒死病のあとに続いた400年
黒死病のあともペストがたびたび戻ってきたこと自体は、歴史記録からよく知られています。14世紀から18世紀まで続いたこの一連の流行は「第二次ペストパンデミック」と呼ばれ、ロンドンの大疫病(1665年)も、その中の一つです。
分かっていなかったのは、その一回一回が互いにどうつながっていたのか、という点でした。最初に持ち込まれた菌がヨーロッパのどこかに居座り続けて、ときどき噴き出していたのか。それとも、外から何度も持ち込まれ直していたのか。骨から取り出したペスト菌(Yersinia pestis)のDNAは100個以上も集まっていたのに、そこがはっきりしなかったのです。
年代の幅という壁
つまずきの原因は、意外に地味なところにありました。年代測定の精度です。
古い人骨の年代は、ふつう放射性炭素年代測定で調べます。骨に残った炭素の量から、いつごろ亡くなった人かを推定する方法です。ただ、この方法が出す答えは一点ではなく幅で、しかもこの時代の場合、100年以上の幅になることが珍しくありません。「1400年から1520年のあいだ」と言われても、その間にはペストの流行が何度も記録されています。どの流行の犠牲者なのか、決めようがない。
新型コロナのときは、ウイルスの塩基配列に採取日が必ず付いてきました。だから「この変異株がいつどこへ広がったか」を細かく追えた。歴史上のパンデミックでは、その日付にあたるものが100年幅にぼやけてしまう——研究チームの中心となったマルセル・ケラー氏は、そこが解釈の限界だったと説明しています。
系統樹を時計として使う手法

この研究がおもしろいのは、その壁を骨の側からではなく、菌の側から崩したところです。
細菌は世代を重ねるごとに、遺伝子にわずかな変化をためこんでいきます。だから系統樹(どの菌がどの菌から分かれたかを示す家系図)の上でどこに位置するかが分かれば、それ自体が「だいたいいつごろの菌か」という情報になります。枝の根元に近ければ古く、先のほうにあれば新しい。
チームはこの順序関係を、放射性炭素の年代と一緒に統計モデルに放り込みました。炭素が示す幅と、系統樹が示す前後関係。この二つを突き合わせると、互いに矛盾する範囲が削られて、幅がぐっと狭くなります。彼らはこの手法を「系統情報を取り込んだ放射性炭素モデリング(PhIRM)」と名づけています。菌の家系図を、人骨の年代を絞るための時計として使ったわけです。
新しく調べた試料は、エストニア・ロシア・イングランド・オランダ・スイスの11遺跡から。ここから、質の高い完全なゲノム11個と、読み取り精度の低いもの15個、合わせて26個のペスト菌ゲノムを復元しました。年代は1349年から1710年にわたります。そのうち完全な11個に、これまでに他の研究で発表されていた64個を足した計75個について、年代を絞り直し、年代記に残る具体的な流行と結びつけていきました。
1450年前後の大きな枝分かれ
こうして時間軸がはっきりしたところで、系統樹の形に目立つ特徴が浮かび上がりました。1450年から1500年ごろに、菌が三つの大きな系統に分かれているのです。黒死病から100年ほど経った時期に、ヨーロッパのペストは一度、大きく組み替わっていました。
研究チームがこの分岐の意味として挙げているのが、野生のげっ歯類に新しい「たまり場」ができた可能性です。ペスト菌は本来、ネズミやマーモットなどの野生動物の集団の中で細々と生き続ける細菌で、こうした集団は保有宿主(ほゆうしゅくしゅ、病原体をためこんでおく動物)と呼ばれます。どこか一か所に居座っていた菌が広がったのではなく、あちこちで新しい保有宿主が成立し、それぞれが独自に枝を伸ばしていった——系統が三つに分かれた形は、そう読めます。
干ばつという別の年表

この時期に何があったのか。チームが目を向けたのは、気候の年表でした。
1450年前後のヨーロッパは「ルネサンス大干ばつ」と呼ばれる乾燥期にあたります。現代の研究では、気候が野生げっ歯類のあいだのペスト流行を強く左右することが分かっています。乾燥で餌が減れば、げっ歯類は数を減らしたり、食べ物を求めて人の集落へ近づいたりする。そうした動きが、菌の分布を組み替えるきっかけになったのではないか、という見立てです。
ただし、これは論文の中でも慎重に「可能性」として置かれている話です。時期が重なることは示せても、干ばつがこの枝分かれを起こしたと証明したわけではありません。
兵と難民が運んだ流行
もう一つ、菌の系統と重なる年表があります。戦争です。
今回新しく調べたゲノムの中には、三十年戦争(1618〜1648年)のさなかの流行と結びつくものが含まれています。スイスのドマート/エムスの共同墓地から出た試料がそれで、1629年から1631年ごろの流行の犠牲者とみられています。大北方戦争(1700年ごろ〜1721年)についても同じで、1710年のタリン包囲では、スウェーデン軍とロシア軍の兵士にも市民にも死者が出たことが分かっています。
研究チームの一人、クリスティアナ・シャイブ氏は、菌が争いの時期に新しい枝へ分かれ、軍隊や難民がたどったのと同じ道筋に沿って広がっていく様子が見える、と述べています。人がまとまって動けば、病気も一緒に動く。当たり前のようでいて、それが菌の家系図の形として残っているというのが、この研究の見どころです。
エストニアに繰り返し持ち込まれた菌
地域として細かく追えたのがエストニアでした。ここには14世紀後半にはもうペストが入っており、その後も第二次パンデミックの期間を通じて、何度も外から持ち込まれていたことが分かりました。都市部からも農村部からも、これまで知られていなかった系統が見つかっています。
これは、ヨーロッパの片隅で菌がひっそり生き延びていた、という図とはだいぶ違います。エストニアが他地域と結びついていたぶんだけ、病気も一緒に入ってきていた。交易と人の行き来のあるところに、繰り返し持ち込まれていたわけです。
読み取れることの範囲
押さえておきたい点もあります。まず、75個のゲノムと歴史上の流行との結びつけは、あくまで「この流行の犠牲者である可能性が高い」という対応づけで、確定ではありません。年代の幅は狭まりましたが、なくなったわけではないからです。
干ばつや戦争との関係も、時期の重なりを示した段階です。菌の枝分かれの原因を突き止めた、と読むと行き過ぎになります。試料の数も、400年ぶんのヨーロッパ全域を覆うには十分とはいえません。今後さらに古代DNAが集まれば、この年表はもっと細かく描き直されることになります。
それでも、黒死病を一度きりの事件として覚えていた人にとって、この研究が見せる図はかなり違って映るはずです。あの大流行は始まりで、そのあと菌は枝を分け、新しい宿主に落ち着き、干ばつや戦争のたびに息を吹き返しながら、18世紀まで居続けた。ペスト菌は今も世界のいくつかの地域で野生動物の中に残っています。一つの病原体が何百年かけて土地に根づき、やがて消えていく過程をこれだけ細かく追える例は多くありません。次の感染症を考えるときの、数少ない長期の実例ということになります。
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出典
・Keller, M. et al. “A refined phylochronology of the second plague pandemic in Western Eurasia.” PNAS 123(37), e2534899123 (2026). https://doi.org/10.1073/pnas.2534899123
・タルトゥ大学ゲノミクス研究所 プレスリリース A Sharper Picture of a Pandemic
・ScienceAlert(David Nield、2026年9月29日) New Study Shows What Really Happened After The Black Death Wiped Out Millions


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