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古代の北アフリカというと、思い浮かぶのはほぼエジプト一択です。ピラミッドの西側、いまのモロッコやアルジェリアにあたる一帯で先史時代に何が起きていたかは、研究者のあいだでも長く「空白」と呼ばれてきました。その空白に、はっきりした物証がひとつ立ちました。モロッコ内陸の丘で、壕(ほり)と土手をともなう防御用の壁の土台が見つかり、放射性炭素年代で3,500〜4,000年前と出たのです。ナイル川流域の外側の北アフリカでは、この種の構造として最古になります。
おもしろいのは、その壁が「発見された」というより「見直された」ものだという点です。壁そのものは90年前から知られていて、何度も掘られてきました。答えは、その足元にありました。
モロッコ内陸の丘に眠っていた農耕集落
舞台はウェド・ベト(Oued Beht)。モロッコの首都ラバトから東へ約80km、ケミセット州の内陸にある遺跡です。一年中水が流れる川を見下ろす細長い尾根の上に広がっていて、尾根の南の端は片側が川、反対側が谷に落ち込む、自然の要害のような地形をしています。
この場所は数年前から注目されていました。イタリア・モロッコ・イギリスの合同調査団が2022年に行った発掘で、いまから5,000年以上前(紀元前4千年紀の半ば〜末)に、9〜10ヘクタールにわたって人の活動の痕跡が広がっていたことがわかったからです。磨いた石斧が大量に出て、模様を描いた土器もあり、さらに釣鐘の形をした穴がいくつも見つかりました。穴は穀物を貯蔵するためのものと考えられています。出てきた植物の遺物は大麦、デュラム小麦、エンドウなどで、はっきりと農耕をしていた集落でした。当時のアフリカで、エジプトの外ではこれだけ大規模な農耕集落は知られておらず、それだけでも大きなニュースでした。

上の画像は想像図で、実際の遺跡の写真は記事末尾の出典ページで見られます。
90年前から知られていた「壁B1」
尾根の南のほう、集落の中心から少し離れた場所に、東西に横切る石積みの壁が残っています。調査団が「壁B1」と呼んでいるもので、遺跡内に見えている構造物としては最大です。
この壁、じつは新顔ではありません。1936年に研究者ルールマンが、尾根の先端を壁で仕切った「エペロン・バレ」(切り離された岬、という意味の防御集落の型)ではないかと記録しています。2013〜15年にはフランスとモロッコの調査団が掘ってもいます。ただ、そのときは「石積みの上のほうは先史時代よりずっと後のもの」とわかっただけで、壁がいつ最初に築かれたのかは決められませんでした。
そこで2023年秋、今回の調査団はこの壁に真正面から切り込みました。壁を横切る形で、長さ14.2m、幅2.5mの細長い発掘区を開き、壁の断面を根元まで掘り下げたのです。途中にオリーブの古木があったので、その北側はずらして幅1mの延長区を足しています。
石の壁は中世のもの、その下に4,000年前の土台
結果は、調査団自身が論文に「期待は見事に満たされた」と書くほどのものでした。
まず、地上に見えている石積みの壁。幅2.3m、高さ1.35mのしっかりした構造ですが、年代は先史時代ではありませんでした。壁と一緒に積まれた土手の層などから出た炭は11〜13世紀、つまり中世のものでした。何度も掘られて「先史時代より後」としか言えなかったのは当然で、上に乗っている石の部分は本当に後の時代のものだったわけです。
ところがその石積みの下に、まったく別の層がありました。炭を多く含む灰色の土、焼けた土壁のかけら、焼けていない土壁のかけら、そして踏み固められた砂利の基礎。石ではなく、土と粘土で築いた壁の名残です。この基礎の砂利層から出た炭の年代は紀元前2010〜1747年、上の焼けた層の炭は紀元前1896〜1623年でした。つまり、いまから4,000年ほど前に土の壁が立てられ、その後いちど焼け落ちている。石の壁は、その古い土台の上に、2,000年以上たってから積み直されたものでした。
壁だけではありません。壁の北側には、幅1.84m、深さ65cm以上の壕が掘られていました。壕の埋め土から出た栽培植物の種を測ると紀元前1500〜1300年ごろで、壕の底にはまだ達していないので、掘られたのはそれより前の可能性があります。壁と壕のあいだには土を盛った土手もあり、その最初の層も紀元前2千年紀の半ばのものでした。土手の土は石がほとんど混じっておらず、どこかから選んで運んできた土のようだ、と論文は書いています。

上の画像も想像図です。この発掘区からは合計17点の放射性炭素年代が取れていて、そのうち2点は後から紛れ込んだとみられて除外されましたが、残りの15点は地層の上下関係とよく合っていました。石の壁の下に、壕と土手をともなう4,000年前の土壁がある。それが今回の結論です。
壁と壕と穀物倉がそろう意味
壁があるということは、守るものがあったということです。ウェド・ベトには釣鐘形の貯蔵穴が数十個あり、その数は住んでいた人たちが食べる分をはるかに超えています。調査団の共同責任者でイタリア国立研究評議会のジュリオ・ルカリーニさんは、周辺の広い地域の穀物を集めていた可能性を指摘しています。集落の南端を壁と壕でふさぎ、尾根の地形を使って守りやすくする。この工事は思いつきでできるものではなく、場所を選び、人を集め、長期間にわたって労働を組織する必要があった、というのが彼の見方です。
この時代の壁と壕は、ジブラルタル海峡の向こう側、スペイン南部でよく知られています。エル・アルガル文化と呼ばれる青銅器時代の社会が、丘の上に防壁つきの集落を築いていた時期です。イベリア半島の遺跡からは以前からアフリカ産の象牙やダチョウの卵殻が出ていて、海をまたぐつながりは推測されていました。今回の発見で、その「アフリカ側」の姿がようやく見え始めたことになります。
ただし、両岸が同じだったわけではありません。イベリア側は青銅の道具や豪華な副葬品をともなう大きな丘上集落で、社会の階層がはっきり見えます。ウェド・ベトの防御施設はそれよりずっと小規模です。ルカリーニさんも、両岸が似ていたのではなく、マグレブ(北西アフリカ)の人々も同じ時期に大がかりな共同作業と要所の支配に力を注いでいた、という点を強調しています。
研究に関わっていないカリフォルニア大学ロサンゼルス校のイマン・ナジさんは、この発見について、大きな建築物や社会の複雑さは必ず外からもたらされたはずだ、という古い前提を考え直させるものだと評価しています。
まだわかっていないこと
「何から守っていたのか」は、はっきりしません。ルカリーニさん自身、外からの侵入者というより、土地や資源をめぐる競争、人の移動の管理、指導者の役割がはっきりしてきたことの表れかもしれない、と慎重に述べています。論文も、壁と壕の位置からして防御と解釈するのが自然としつつ、区画や囲いなど別の目的の可能性を排除していません。長い歴史のなかで同じ使われ方をしていたとも限りません。
壕の底にまだ届いていないこと、南側にある別の壁(壁C)が同じ時代のものかどうか未確認なこと、初期の壁に石が使われていたかどうかも決着していないこと、と論文は課題を並べています。ちなみに2022年に地元の人から「家を建てていたら人骨が出た」と聞いて、先史時代の墓地ではないかと期待して調べた区画もあったのですが、こちらは中世の墓でした。
それでも、エジプトの外の北アフリカに、農耕集落と穀物の貯蔵、そして壁と壕がそろった4,000年前の物証が立ったことは動きません。空白だった地図に、点がひとつ打たれました。
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