チンパンジーの脳では、遺伝子がひとつウイルスに止められていた。人には無い古いレトロウイルスの痕跡と、人の脳オルガノイドで神経細胞を伸ばす遺伝子 LINC00662

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人とチンパンジーの DNA の違いは1〜2%ほどで、タンパク質を作る遺伝子だけを見ると、ほとんど同じと言ってよいほど似ています。それでも脳の大きさは人のほうが約3倍あり、構造も働きもずいぶん違います。この差がどこから来たのかを、スウェーデンのルンド大学の Patricia Gerdes と Johan Jakobsson らの研究グループが、ゲノムに残った古いウイルスの痕跡から調べました。論文は2026年10月23日に Science Advances に載っています。

チンパンジーにあって人に無いウイルスの痕跡

レトロウイルスは、感染した細胞の DNA に自分の遺伝情報を書き込むウイルスです。それが生殖細胞に起きると、書き込まれた配列は子孫に受け継がれ、ゲノムの一部として残ります。こうして残った配列を内在性レトロウイルスと呼び、人のゲノムにもたくさん埋まっています。

今回注目したのは PTERV1 という内在性レトロウイルスです。チンパンジーやゴリラなどアフリカの類人猿のゲノムには数百か所に入っていますが、人のゲノムには1か所もありません。人とチンパンジーの祖先が分かれたあとに、チンパンジーの側の系統だけが感染したと考えられています。なぜ人の祖先が感染を免れたのかは分かっておらず、ウイルスを抑える TRIM5α というタンパク質の違いや、当時の生息地が違っていた可能性が挙げられています。

研究グループは、チンパンジーの iPS 細胞から脳のオルガノイド、つまり培養皿の中で育てた小さな脳の組織を作り、その中で PTERV1 の挿入箇所がどう扱われているかを調べました。すると挿入箇所は DNA のメチル化という目印で強く覆われ、周りの DNA ごと固く巻き取られて読まれにくくなる領域が150か所以上できていました。チンパンジーだけに固有のこうした領域は、近くの遺伝子の働きを変える力を持ちます。

チンパンジーの脳では、遺伝子がひとつウイルスに止められていた。人には無い古いレトロウイルスの痕跡と、人の脳オルガノイドで神経細胞を伸ばす遺伝子 LINC00662

19番染色体で、遺伝子がひとつ止まっていた

150か所以上の中から、研究グループは19番染色体の1か所に目を留めました。そこでは PTERV1 の挿入から広がったメチル化が、すぐそばの LINC00662 という遺伝子を黙らせていました。LINC00662 はタンパク質を作らず、長い RNA として働く遺伝子です。人では脳の発生の初期に活発に読まれていますが、チンパンジーではほとんど読まれていません。

この沈黙がウイルスの挿入のせいだと確かめるため、研究グループはチンパンジーの iPS 細胞から CRISPR で PTERV1 の配列を切り取りました。すると LINC00662 が読まれるようになりました。挿入があるから止まり、取り除けば動く。挿入そのものが遺伝子を止めていたことが、これで示されました。

人の脳オルガノイドで同じ遺伝子を止めると

では、この遺伝子は人の脳で何をしているのでしょうか。研究グループは人の脳オルガノイドで LINC00662 の働きを止めてみました。すると神経細胞の成熟が遅れ、情報を送る軸索の伸びが悪くなり、オルガノイド全体の発達も変わりました。人の脳では、この遺伝子が神経細胞を育てて枝を伸ばす役を担っているようです。

つまり、人が何かを新しく手に入れたのではなく、チンパンジーの側でウイルスの挿入が遺伝子をひとつ止めた、という向きの話です。人とチンパンジーの脳の違いは、タンパク質の設計図の差というより、遺伝子をいつどこで読むかの調節の差から生まれたと長く考えられてきました。今回の研究は、その調節を変えた具体的な仕掛けのひとつを、ウイルスの痕跡の中に見つけたことになります。

チンパンジーの脳では、遺伝子がひとつウイルスに止められていた。人には無い古いレトロウイルスの痕跡と、人の脳オルガノイドで神経細胞を伸ばす遺伝子 LINC00662

結論を広げすぎないために

Gerdes は ScienceAlert の取材に、LINC00662 が人の体で果たしている役割の全体も、この遺伝子が働かないことがチンパンジーにとって何を意味するかも、まだ分かっていないと話しています。もし人の祖先が同じ挿入を受けていたら、やはりこの遺伝子は止まり、脳の細胞の発達は変わっていただろうと見ていますが、それがどんな脳の形や能力につながるかは予測できない、とも言っています。周りの DNA や他の遺伝子との組み合わせで、結果は変わりうるからです。

逆に、チンパンジーから挿入を取り除けば脳の発達が変わるのか、という問いにも慎重です。実験で示したのは幹細胞で遺伝子の働きが戻ることまでで、育った脳を変えることではありません。脳の違いは多くの遺伝的な影響と発生の過程が積み重なってできるもので、ひとつの挿入を外しても過去の発達はやり直せないと、Gerdes は説明しています。

それでも、ゲノムに入り込んだウイルスが、何百万年もあとまで脳の作り方に影を落としている、という事実は残ります。人のゲノムにも別の内在性レトロウイルスが大量に埋まっていて、その多くは何をしているのか分かっていません。チンパンジーの側で見つかった今回の仕掛けは、人のゲノムに残る痕跡を読み解くときの手本にもなりそうです。

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