月や火星では、急に具合が悪くなっても、地球の医師にその場で相談できない。電波が往復するだけで何十分もかかってしまうからだ。NASAは、この「呼んでも間に合わない」を埋めるために、大規模言語モデル(LLM、大量の文章を学習して受け答えするAI)を使った診断支援システムを宇宙飛行士向けに試している。直近の発表では、そのシステムを地球との通信が切れても動く「オフライン仕様」へ作り替える作業が進んでいることが明らかになった。

地球の医師に届かない場所での医療
国際宇宙ステーション(ISS)にいる宇宙飛行士なら、体調を崩しても地上の医師とほぼリアルタイムでやり取りできる。地球とのあいだに大きな時間差がないからだ。実際、NASAは今年、健康上の懸念からISSのCrew-11を予定より早く地球へ帰還させている。問題が起きたら戻ってくる、という選択肢がまだ残っている距離だということでもある。
ところが月や火星へ向かう長期ミッションでは、この前提が崩れる。火星との通信は片道で20分ほど、往復では40分を超えることもある。けがをした人や急病人を前にして、ひとつ質問を送るたびに往復40分待つ、という状況では相談として成り立たない。距離が遠ければ、途中で引き返す「早期帰還」も現実的でなくなる。つまり、深宇宙へ行くほど、乗組員が自分たちだけで診断・治療を判断しなければならない場面が増えていく。
乗組員向けの診断支援システム「CMO-DA」
NASAのジョンソン宇宙センターが試しているのが、「Crew Medical Officer Digital Assistant(乗組員の医療担当者向けデジタルアシスタント、略してCMO-DA)」と呼ばれるシステムだ。医師の判断を肩代わりするものではなく、診断や治療方針を考えるときの“相棒”として使う、いわゆる臨床判断支援の仕組みにあたる。
もとは2025年8月にGoogleとNASAが公表した試作段階のプロジェクトで、GoogleのクラウドAI基盤の上で動いていた。学習に使ったのは宇宙医学の文献で、症状を伝えると考えられる診断名や次にとるべき手当てを返す。文字だけでなく、話しかけた音声や画像も受け取れる「マルチモーダル」な作りになっている。あくまで、船内で医療を担当する乗組員や地上の航空医官を支える道具という位置づけだ。
クラウド依存からオフライン運用への移行
今回(2026年6月)の新しい動きは、このCMO-DAをクラウド頼みの試作品から、地球とつながっていなくても単独で動く形へ移したことだ。Red Hatの説明によると、システムはいま、ISSに載っているHPE製コンピューター「Spaceborne Computer」の地上版の双子機の上で動いている。
その土台になっているのが、Red Hatが支援するオープンソースの「RamaLama」というツールだ。AIモデルを“コンテナ”——ソフトを動作環境ごと箱に詰めて、どんな機械の上でも同じように動かせる仕組み——として扱い、手元の機器の中だけでAIを走らせる。これによって、複雑な医療の推論を担うLLMと、画像から症状を読み取る視覚言語モデル(VLM、画像も読めるAI)の両方を、大がかりな設備なしに動かせるという。
地球との通信が前提でなくなる利点は大きい。月や火星では電波が途切れる時間帯が避けられないが、診断の処理が手元で完結していれば、距離や通信状況に左右されずに答えが返る。オープンソースのツールを使うことで、どんな手順で動いているかを後から検証・再現しやすい点も、人命がかかる場面では重要になる。
診断精度の現状
初期の試験では、医学生や医師の臨床能力を測るのに使われる「OSCE」という試験形式を借りて、CMO-DAの出した答えを採点している。報じられている初期の数値では、足首のけがで88%、耳の痛みで80%、わき腹の痛みで74%といった正答率が挙げられている。
ただし、これらはいずれもシミュレーション上の症例での結果であり、Google公式ブログ自体は「有望な結果が出た」とするだけで具体的な数値は出していない。数字は報道経由で広まったものなので、確定した性能評価というより目安として受け取るのが妥当だ。
地上で進むAI診断の動き
宇宙に限らず、地上でもAIが難しい症例の診断で医師を上回る場面が報告され始めている。Microsoftが2025年に公表した診断システム「MAI-DxO」は、医学誌『New England Journal of Medicine』に載った難症例304件で、85.5%という正答率を出した。同じ問題に取り組んだ米英の医師21人の平均は約20%だったという。
もっとも、この差をそのまま「AIが医師より優秀」と読むのは早い。医師側は参考資料や同僚への相談ができない条件でテストされており、MAI-DxOも単独のAIではなく複数のモデルを議論させて束ねた仕組みだ。それでも、こうした結果が積み重なってきたことが、深宇宙でのAI診断という発想を後押しする背景になっている。
現時点での限界と留意点
期待できる話ではあるが、いくつか冷静に見ておきたい点がある。まず、CMO-DAはまだ地球を出ていない。地上の双子機での検証を重ねている段階で、宇宙で実際に使った臨床結果が公表されているわけではない。Red Hatは、地上での検証が済んだらNASAの上層部に実演し、さらなる利用を判断してもらう、と説明している。次の版ではより安定した基盤への載せ替えも計画されている。
もうひとつは、AIが自信ありげに誤った答えを返す「ハルシネーション」のリスクだ。深宇宙という、やり直しのきかない環境で医療判断に使う以上、ここをどう抑えるかは大きな課題になる。CMO-DAはあくまで判断を補助する道具であって、医師の代わりではない——という位置づけは、開発側も繰り返し強調している。つまり、近い将来に宇宙船の中へ「AIの主治医」がそのまま乗り込む、という話ではない。地球から医師の手が届かない場所でも判断の助けを残しておく、その第一歩が地上で固められつつある、というのが今の段階だ。
出典・参考リンク
- NASA tests AI medic for astronauts too far from Earth to call a doctor(The Register, 2026年6月27日)
- To the moon and beyond: RamaLama being tested by NASA…(Red Hat公式ブログ, 2026年6月24日)
- How Google and NASA are testing AI for medical care in space(Google Cloud公式ブログ, 2025年8月7日)
- Microsoft says its AI tool outperforms physicians on complex diagnostic challenges(Medical Economics)


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