西暦79年、ベスビオ火山の噴火で炭になったまま地中に眠っていた巻物(パピルス)から、約2000年前の哲学書の中身が読み解かれました。すごいのは、その巻物を一度も開かずに、端から端まで読み通したところです。炭化した巻物は触れるだけで崩れてしまうため、長らく「読めるが、読もうとすると壊れる」という厄介な代物でした。それを、巻いたままの状態でまるごと解読できたのは今回が初めてだといいます。

灰に封じられた古代の図書館
舞台は、古代ローマの町ヘルクラネウム。噴火の火山灰が、ある豪邸の図書室をそっくり封じ込めました。中にあったのは1800点ほどのパピルス(草を加工した古代の紙)で、ギリシャ・ローマ世界で唯一、当時のまま残った図書館とされています。発見は1750年代。ただし、見つかったときにはどれも真っ黒に炭化していて、巻きを広げようとすると砕けてしまいました。
以来、研究者は同じジレンマを抱え続けてきました。技術が進むのを待って自分の代では読むのを諦めるか、それとも自分の手で開いて壊してしまう危険を冒すか。実際、18〜19世紀には手作業で開く試みが行われ、多くの巻物が傷つき、あるいは失われました。今回読まれた巻物も、19世紀と1969年、そして1980年代の開封の試みで外側の層がかなり削られています。直径はもともと約5センチありましたが、いまは2センチを切るほどに縮んでしまいました。
全文を読み通した最初の巻物
そこで近年たどり着いたのが、第三の道です。物理的に開かず、高解像度のX線で撮影してデジタル上で“広げ”、機械学習で薄れたインクの跡を浮かび上がらせる――という方法でした。これを進めているのが、賞金付きの公開コンペ「Vesuvius Challenge(ベスビオ・チャレンジ)」です。2023年には、開いていない巻物から「紫」というたった一語を読み取った学生に4万ドルが贈られ、そこから少しずつ読める範囲が広がってきました。
そして2026年6月25日、研究チームは「PHerc. 1667」と呼ばれる巻物について、残っている文字をすべて読み終えたと発表しました。約1.4メートル分、22列ほどのギリシャ語が連なる範囲です。バラバラの単語や断片ではなく、文章を列から列へと続けて追えるかたちで読めたのは、炭化したヘルクラネウムの巻物では初めてとされています。
浮かび上がったストア派の倫理学
中身は、倫理をめぐる哲学書でした。人の本性とは何か、衝動にまかせて動くことの危うさ、理性にもとづいて生きることの大切さ――こうした、ストア派(古代ギリシャ・ローマの哲学の一派で、感情に流されず理性で生きることを重んじた)に通じる議論が並びます。残っている最後の列には「アリストクレオン」という人物の名が出てきます。これはストア派の重要人物クリュシッポスの甥であり弟子にあたる名前で、文章の言葉づかいやテーマと合わせて考えると、この巻物は紀元前2世紀ごろのストア派の著作らしい、というのが研究チームの見立てです。
たとえば、こんな一節が2000年ぶりに読めるようになりました。「われわれは何かを探究するだろう。しかし、もし自分自身と自分の本性から離れてしまうなら、それをつかむことはできないだろう」。理性と、人にもともと備わった善さへの傾きにしたがうことが、知と徳を求めるうえでの要になる――そう読める内容だと、チームの古文書学者は説明しています。
X線とAIで中身を取り出す手順
読み取りの流れはこうです。まず、巻いたままの巻物にX線を当ててCTのように内部を撮影し、ぐるぐると巻かれた一枚のシートがどう収まっているかを立体的に割り出します。次に、それを平らな面へとデジタル上で“広げ”、最後に機械学習のモデルを使って、炭化したパピルスとほとんど見分けがつかないインクの跡を浮かび上がらせます。仕上げに、古文書学者が一文字ずつ確かめて書き起こす、という人の手も入っています。
今回の撮影には、フランス・グルノーブルにある大型放射光施設ESRFの高解像度X線が使われました。紙一枚ぶんよりも薄く、ぎっしり重なった巻物の層を見分けられる装置です。撮影データも復元したシートも書き起こしも、誰でも検証・再利用できるように公開されています。
失われた原典に近づく価値
この発見が効いてくるのは、ここからです。名前の出てきたクリュシッポスは、ストア派をかたちづくった中心人物でありながら、その著作そのものは現存せず、後世の人が引用・要約した断片を通してしか知られていませんでした。つまり、人の手を介して言い換えられた“また聞き”しか残っていなかったわけです。もし今回の巻物が本当にその系統の原典なら、引用や要約ではない一次資料に直接触れられることになります。これは文献の研究にとって大きな意味を持つ、と専門家は語っています。
チームは同時に、別の巻物でも成果を出しています。「PHerc. 139」では、タイトルと著者が判明し、エピクロス派(快楽を求め、苦痛を避けることを説いた別の学派)の哲学者フィロデモスによる『神々について』第8巻だと分かりました。さらに別の巻物では70列を超える文章も読み取られています。封印されたままの巻物はまだ何百本も残っており、主催者は「1年以内にもう1本を全文解読した人・チーム」に100万ドルの賞金を新たに用意しました。
解釈上の留意点
いくつか、冷静に押さえておきたい点があります。まず今回の成果は、査読前のプレプリント(正式な審査を経る前に公開された原稿)として出された段階です。今後の検証で評価が固まっていくものとして見ておくのが無難です。
「全文を読んだ」という言い方にも注意が要ります。これは“残っている部分をすべて読めた”という意味で、巻物そのものが完全な姿で残っていたわけではありません。前述の通り、過去の開封の失敗で半分以上が失われており、タイトルや上部はそもそも欠けています。著者がクリュシッポス本人かどうかも、いまのところ推定にとどまります。読み取れた文章にも、表面が失われて穴が空いた断片的な箇所が残っています。
出典
- An entire Herculaneum scroll has been read for the first time(Vesuvius Challenge 公式発表)
- Complete virtual unwrapping and reading of a rolled Herculaneum papyrus(プレプリントPDF・査読前)
- Scientists Have Deciphered the Surviving Fragments of a 2,000-Year-Old Philosophical Treatise…(Smithsonian Magazine)
- Papyrus scroll burnt to a crisp during Vesuvius eruption deciphered with help of AI(CNN)


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