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新選組といえば「局中法度」。隊を抜ければ切腹、士道に背いても切腹、という鉄の掟で知られています。ただ、実際に何人が切腹したのかとなると、意外と語られません。調べてみると、京都にいた5年間で「敵に斬られて死んだ隊士」より、「切腹した隊士」のほうが多いという数字が出てきます。
この記事では、切腹した隊士を一覧にしたうえで、そもそも人は命じられて腹を切れるものなのか、この人数は異常なのか、幕末という時代の問題なのかを順に見ていきます。

切腹した新選組隊士の一覧
新選組が京都で活動したのは文久3年(1863)から慶応3年(1867)までのおよそ5年です。この間に隊内で切腹した隊士を、記録や研究でおおむね一致しているものから挙げます。日付は旧暦です。
- 家里次郎(文久3年4月24日)― 浪士組の残留組どうしの主導権争い。大坂で切腹
- 新見錦(文久3年9月)― 芹沢派の局長。不行跡をとがめられ切腹
- 野口健司(文久3年12月27日)― 芹沢派の生き残り。理由ははっきりしない
- 葛山武八郎(元治元年9月6日)― 近藤勇の非行を会津藩に訴えた建白の責任を負わされたとされる
- 山南敬助(元治2年2月23日)― 総長。脱走して大津で連れ戻され切腹
- 施山多喜人(慶応元年6月21日)― 京都の商家の妻女と関係を持ち、士道不覚悟
- 石川三郎(慶応元年6月21日)― 施山と同じ件で切腹
- 河合耆三郎(慶応2年2月12日)― 勘定方。隊費の不足を問われ切腹
- 柴田彦三郎(慶応2年6月23日)― 無断の金策と脱走。但馬で捕らえられ屯所で切腹
- 田内知(慶応3年1月10日)― 妾の浮気相手に斬られ、大声で助けを呼んだことが士道不覚悟とされた
- 田中寅三(慶応3年4月15日)― 剣術師範。理由ははっきりしない
- 佐野七五三之助・茨木司・富川十郎・中村五郎(慶応3年6月14日)― 幕臣取り立てに反発して離隊を願い出るも認められず、会津藩邸で4人そろって自刃
ここまでで15人です。さらに、慶応元年に死んだ大谷良輔・佐野牧太・細井鹿之助、四番隊組長の松原忠司については切腹説がありますが、斬首や病死の説もあって確定していません。これらを含めると20人近くになります。
なお「新選組で粛清された隊士」として語られる人数はもっと多く、芹沢鴨や伊東甲子太郎のように暗殺・斬殺された隊士も含めると30人を超えます。歴史作家の山村竜也さんの整理では、法度違反で処刑された16人と内部抗争で死んだ18人を合わせて34人、菊地明さんの『新選組 粛清の組織論』では約520人の隊士のうち40人が粛清・暗殺で死んだとされています。切腹はそのうちの、刀を向けられずに死んだ側の人たちです。
人は本当に腹を切れるのか
切腹は、自分で腹を切り裂いて死ぬ行為です。ただ、人間の体は腹を切ってもすぐには死にません。平安末期の信西が穴の中で腹を切ったあと、掘り出されたときにまだ目が動き息もあった、という話が『平治物語』に残っているほどです。だから介錯人がいます。切腹人が腹に刀を入れた瞬間、後ろから首を落として苦しみを終わらせる役です。
江戸時代になると、切腹は武士に科される死罪の一つとして制度化されました。検死役の前で腹を切ろうとしたところを介錯人が首を落とす、というのが正式な形です。そしてこの時代には「扇子腹」も広まります。短刀の代わりに扇子を置き、それに手を伸ばした瞬間に介錯する。腹には一切刃を入れません。切腹という名前は残しつつ、実態は斬首に近いものになっていました。
では新選組の切腹はどうだったのか。残っている話を見るかぎり、形式だけで済んでいない例が目立ちます。
山南敬助は、脱走して大津で連れ戻され、ほとんど間を置かずに切腹しました。介錯は沖田総司が務めたと伝わります。取り乱さず、見事な最期だったと言われている一方で、河合耆三郎の場合は介錯がうまくいかず、3度目でようやく絶命したという話が伝わっています。会津藩邸で自刃した佐野七五三之助は、腹を切ったあとに検死に来た大石鍬次郎に斬りかかったとされます。腹を切った状態で、まだ動けていたわけです。
つまり「人は切腹なんて簡単にできるのか」という問いへの答えは、できないからこそ介錯人がいる、になります。そして新選組では、その介錯も毎回きれいに決まったわけではなかった。これが切腹の実態です。

この人数は異常なのか
比べる相手を置くと、はっきりします。
山村竜也さんの集計によると、新選組が京都で活動した5年間に、敵との戦いで死んだ隊士は7人です。池田屋事件で傷を負って死んだ奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門の3人を含めて、7人。剣術の腕で選ばれた集団なので、斬り合いで死ぬ者が少ないのは不思議ではありません。
その一方で、切腹した隊士は15人。暗殺・斬殺を含めた「味方に殺された隊士」は34人です。敵に殺された人数の5倍にあたります。敵を取り締まるためにつくられた組織が、敵より多くの味方を死なせていたことになります。
ここで押さえておきたいのは、切腹の理由の軽さです。人妻と関係を持った、隊費の帳尻が合わなかった、襲われたときに助けを呼んだ。どれも死に値する罪とは思えません。河合耆三郎にいたっては、実家が裕福で損失の補填はできる状況だったのに、土方歳三はそれを認めず、士道に背いた者として切腹させています。金の問題ではなく、見せしめが目的だったと見るほうが自然です。
ただ、掟がいつも同じ厳しさで当てはめられたわけでもありません。佐久間象山の子である三浦啓之助は脱走しても追われず、馬越三郎は土方から金を渡されて隊を離れています。後ろ盾のない平隊士や、幹部でありながら隊に逆らった山南には掟どおりの裁きが下り、そうでない者は見逃された。局中法度は紙に書かれた条文というより、近藤と土方の判断そのものだったと言えます。
そもそも、あの有名な五か条の「局中法度」自体、当時の原本は見つかっていません。広く知られるようになったのは昭和3年の子母澤寛『新選組始末記』からで、同時代の記録から隊に厳しい決まりがあったことはうかがえるものの、あの文言そのままで定められていたかは確かめられていないのです。
時代のせいなのか、新選組のせいなのか
幕末は、切腹がまだ制度として生きていた最後の時代です。武士の死罪としての切腹は明治3年の新律綱領でも士族に認められ、廃止されたのは明治6年のことです。禁門の変の責任を取って長州藩の三家老が切腹したのも、堺事件で土佐藩士が外国人の前で次々と腹を切ったのも、新選組と同じ時期の出来事です。切腹そのものは、この時代の武士社会ではまだ日常の延長にありました。
その意味で、「切腹があった」こと自体は時代的なものです。しかし「5年のあいだに仲間が15人も切腹した」ことは、時代だけでは説明がつきません。
新選組は藩ではありません。会津藩のお預かりという立場の、公募で集まった浪士の集団です。隊士の多くは武士の出ではなく、近藤勇も土方歳三も多摩の農家の生まれでした。藩であれば、不始末を起こした家臣の処分は藩の法と手続きに委ねられます。新選組にはそれがなかった。処分は内輪で決めるしかなく、その処分を「武士らしく」見せる手段が切腹だったのだと考えられます。
切腹は、江戸時代には「執行官の手にかからない、名誉ある死刑」として侍以上の身分にだけ認められたものでした。だからこそ、武士になりたての集団にとって、仲間を切腹させることは「自分たちは武士の掟で動いている」という宣言でもあったのでしょう。斬首ではなく切腹にした、という一点に、新選組という組織の背伸びが見えます。
切腹した15人のうち、局長・副長級は新見錦と山南敬助の2人だけです。あとは伍長や平隊士が大半で、理由も痴話沙汰や金勘定のような、どの組織にも起こりそうな出来事ばかりです。幕末の武士社会が切腹を許していたことと、新選組がそれを仲間の統制に使い切ったこと。この2つは分けて考えたほうがいいように思います。
参考にした資料
【幕末こぼれ話】新選組は敵に殺されるよりも、味方に殺されたほうが何倍も多かった?(山村竜也・Yahoo!ニュース エキスパート)
新選組の切腹・粛清一覧——局中法度で死んだ隊士は誰だったのか(幕末歴史ガイド)
切腹の流儀:武士としての潔さなのか、名誉を守る様式美なのか(nippon.com)
人物ごとの日付や理由は、史料によって食い違うものが少なくありません。この記事では複数の資料で一致しているものを中心に書き、説が分かれるものはその旨を添えました。
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