シュレーディンガーが書いて出さなかった原稿。量子力学の偶然を「隠れた変数」で再現してみせた本人は、決定論を信じていなかった

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「シュレーディンガーの猫」の人は、量子力学の「サイコロ」を認めなかった決定論者だった。そう思われがちなエルヴィン・シュレーディンガーが、1944年の終わりごろに書いて、結局どこにも出さなかった原稿があります。ジュネーブ大学の物理学史家 Flavio Del Santo が、ウィーン大学の文書庫で見つけたこの手書きの原稿を、2026年10月14日に arXiv で公開しました(査読前)。中身は、量子力学の偶然を「見えない変数」で説明してみせる模型です。ただし、それを書いた本人は決定論を信じていませんでした。

1944年の論争「決定論の崩壊」

話は1943年5月、ロンドンの物理学会での講演から始まります。数学者で物理学者の Edmund Whittaker が「偶然・自由意志・必然」と題して、量子力学は古典的な決定論を葬った、と論じました。翌1944年1月にはインド科学会議で Satyendra Nath Bose が同じ趣旨の講演をしています。どちらも根拠にしたのは、1932年に John von Neumann が示した「量子力学に隠れた変数を付け加えることはできない」という証明でした。

Whittaker はもうひとつ、数式なしで分かる例も出しました。偏光した光子が偏光板を通る確率は、光子の偏光と板の軸の角度 φ で cos²φ になります(マリュスの法則)。もし光子が「通る・通らない」を決める1ビットの隠れた変数を持っているなら、板に届く前からその値は決まっているはずです。ところが板の向きは、光子が飛んでいる最中に変えられる。板の向きを変えても光子の中の値は変わらないのに、通る割合は変わらなければいけない。だから隠れた変数では説明できない、という論法です。

この話を1944年7月に Nature 誌で紹介したのが、数学者 Henry Piaggio の記事「決定論の崩壊」でした。ここから約1年、同誌の投書欄で11本のやりとりが続きます。実験家の Gilbert West は「数学で殴り倒されるのを拒む人は多い」と書き、「光子だけに変数を限るからおかしくなる。偏光板の結晶の側にも変数があると考えれば議論は崩れる」と指摘しました。1945年3月、Piaggio は「因果律が否定されたとは言えない」と、いわば引き分けで論争を締めくくっています。

Del Santo の論文によれば、この論争には12本目の返答がありました。印刷されることのなかったその返答を書いたのが、シュレーディンガーです。

シュレーディンガーが書いて出さなかった原稿。量子力学の偶然を「隠れた変数」で再現してみせた本人は、決定論を信じていなかった

2値の仮定を、0から1の実数に広げる

原稿の題は、Piaggio の記事と同じ「決定論の崩壊」。日付はありませんが、本文が1944年11月25日付の投書まで触れているので、それ以降に書かれたものです。ウィーン大学のオーストリア物理学中央図書館にあるシュレーディンガー文書庫に、整理番号 W33-781/9 として眠っていました。

シュレーディンガーはまず Whittaker の論法をなぞったうえで、こう書きます。「私もこの結論には悩まされた。導かれた不合理は、パラメーターの値を2つだけとする単純化の仮定から、目に見えて生じている」。そして、光子が持つ隠れた変数 λ を、0と1の2値ではなく、0から1のあいだに一様に散らばる実数だとします。偏光板の向きが φ のとき、λ が sin²φ 以上なら通り、それより小さければ通らない、という規則を置く。すると通る光子の割合は、0から1のうち sin²φ から1までの長さ、つまり cos²φ になります。マリュスの法則が、一回ごとの偶然なしに出てきました。板の向きを飛行中に変えても困らないのは、通るかどうかが「光子の値」と「板の向き」の両方で決まる仕組みだからです。

ここで終わらないのが、この原稿の見どころです。偏光板を1枚通ったあとの光子は、λ が sin²φ 以上のものだけになっていて、もう一様ではありません。2枚目の板で同じ規則を使うと、量子力学の予言とずれてしまう。シュレーディンガーはそこで、板を通るたびに λ を (λ − sin²φ) ÷ cos²φ に書き換える、という更新規則を付け加えました。これで残った光子の λ は再び0から1に一様に広がり、2枚目の板でも cos² の法則が出ます。更新の仕方まで決定論的に書いてあるのがポイントで、Del Santo は、この部分を数式で明示した点が、同じ時期に似た反論を出した Heinrich Pelzer の論文との違いだと書いています。

シュレーディンガーが書いて出さなかった原稿。量子力学の偶然を「隠れた変数」で再現してみせた本人は、決定論を信じていなかった

模型を作った本人は、決定論者ではなかった

ここまで読むと、シュレーディンガーは隠れた変数の側、つまり決定論の側に立っていたように見えます。原稿の後半は、その読み方をはっきり否定しています。

彼はまず、von Neumann のような厳密な数学的証明も「価値は限られている」と書きます。「実験の証拠と論理的な演繹は、決定論と非決定論のどちらについても、それが不可能だとは決して証明できない」。言えるのはせいぜい、どちらかが余計な仮説を持ち込むぶん「極めて不便だ」ということまでだ、と。そのうえで、「非決定論を支持するいちばん強い根拠は、量子力学より古い」と続けます。自然法則という考えは、もともと統計的な法則に従う現象から抽象されたものなのに、法則の観念が先に根づいてしまったせいで、統計の背後に「真のミクロの法則性」を作りたくなるのだ、というのが彼の見立てです。

これは思いつきの一文ではありません。Del Santo は、シュレーディンガーが1920年代の初めから、師にあたる Franz Exner の影響で「自然法則は徹底して統計的な性格を持つ」と考え、決定論を「古典物理学の根本的な教義」「哲学的な偏見」と呼んでいたことを、別の論文で跡づけています。つまりこの原稿の隠れた変数の模型は、決定論への転向ではなく、「不可能だという証明は成り立たない」ことを示すための原理の証明でした。決定論は必要でも、もっともらしくもないかもしれない。それでも、論理的に不可能だと言い切ることはできない。原稿が言っているのはそこまでです。

なぜ出さなかったのか

原稿がお蔵入りになった理由は、分かっていません。Del Santo が挙げるのは、Pelzer の存在です。Pelzer は1944年1月に投稿し5月に出た論文で、Whittaker の例を隠れた変数で説明する粗い模型をすでに出していました。Nature の論争では1945年1月の West の投書がこれを引用しています。シュレーディンガーがそこで Pelzer の仕事を知り、要点はもう示されたと考えて筆を置いた、というのはありうる筋書きです。ただし Pelzer の模型は機械的なたとえ話が中心で、光子ごとの変数をどう更新するかは書いていません。シュレーディンガーの原稿のほうが模型として明示的で、哲学的な射程も広い、と Del Santo は評価しています。

隠れた変数の探究が物理学の表舞台に戻るのは、1952年の David Bohm の理論まで待つことになります。1964年には John Bell が、局所的な隠れた変数の理論は実験で検証できることを示し、その後の実験はこの種の理論を否定しました。シュレーディンガーの模型は光子1個と偏光板の話で、Bell の議論が扱う2粒子の相関には触れていません。論文自身も、この模型に量子力学に特有の点はなく、床の高さを途中で動かせるコイン投げでも同じことが起きる、と注意しています。

それでも、量子力学を作った本人が、量子力学の偶然を「決められた値」で再現する模型を自分の手で組み、そのうえで「だからといって決定論が正しいわけではない」と書き残していた。80年のあいだ読まれなかった短い原稿は、この人が何を信じ、何を信じていなかったかを、猫の話より正確に伝えています。

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