反物質は、ふつうの物質と同じように下へ落ちるのか。この問いを確かめるための新しい道具が、スイスのポール・シェラー研究所(PSI)でできあがりました。「ミュオニウム」という、2.2マイクロ秒(100万分の2.2秒)で壊れてしまう原子を、向きと速さをそろえたビームとして撃ち出す装置です。チューリッヒ工科大学(ETH)のアンナ・ショーテル教授らのチームが、2026年9月14日付の学術誌『Nature Physics』に報告しました。
先に書いておくと、この装置はまだ重力を測っていません。今回できたのは、測定に使えるビームのほうです。それでも、なぜこんなに寿命の短い原子をわざわざ使うのかをたどっていくと、この実験のねらいが見えてきます。
反水素で決着した問いと、残された空白
重いものも軽いものも、同じ場所では同じ速さで落ちる。ガリレオの時代から知られているこの性質は、アインシュタインの一般相対性理論では「等価原理」として理論の土台に据えられています。何でできているかに関係なく、重力は同じように働く、という原理です。
では反物質(ふつうの物質と電気の符号などが逆になった物質)はどうか。これについては、2023年にCERN(欧州合同原子核研究機関)のALPHA実験がひとつの答えを出しています。反陽子と陽電子でできた「反水素」を使い、反物質もふつうの物質と矛盾しない向きと大きさで地球に向かって落ちることを確かめました。反物質が上に落ちる、という可能性はこの時点でほぼ消えています。
ただ、ショーテル教授らが見ているのは別の空白です。これまで落下が調べられてきたのは、ふつうの原子、中性子、反水素と、どれも陽子・中性子やその反粒子を含むものばかりでした。陽子や反陽子は、クォークという粒が「強い力」で固く結びついた複合粒子で、その重さの大半はクォークそのものの質量ではなく、強い力のはたらきから生まれています。つまり、これまでの落下実験はどれも「強い力が作った重さ」を落としていたことになります。
もうひとつの空白は「世代」です。素粒子には、私たちの体を作っている第1世代のほかに、性質はそっくりで重さだけが違う第2世代、第3世代があります。電子の第2世代にあたるのがミューオンで、重さは電子の約200倍。なぜ世代が3つあるのかは、いまも分かっていません。そして第2世代の粒子が重力でどう落ちるのかを、直接測った人はまだいません。
寿命2.2マイクロ秒のミュオニウム
そこで登場するのがミュオニウムです。プラスの電気を持つ反ミューオン(ミューオンの反粒子)のまわりを、電子が1個まわっている原子で、形としては水素原子の陽子を反ミューオンに入れ替えたものにあたります。重さの99%以上を反ミューオンが占めているので、ミュオニウムを落とせば、実質的に「第2世代の反粒子」を落としたことになります。しかも反ミューオンはそれ以上分けられない素粒子なので、強い力が作った重さは入ってきません。
電気的に中性であることも欠かせない条件です。重力は電気の力に比べて30〜40桁も弱く、電気を帯びた粒子では、まわりのわずかな電場や磁場に振り回されて落下どころではなくなります。落とすなら中性の原子にするしかありません。
問題は寿命です。反ミューオンは平均2.2マイクロ秒で壊れてしまいます。そのあいだに重力で落ちる距離はごくわずかなので、測定にはたくさんの原子を、同じ向きに、同じ速さで飛ばす必要があります。ところが従来のミュオニウム源は、シリカの粉やエアロゲル(すき間だらけの軽い固体)にミューオンを打ち込み、にじみ出てくる原子を使う方式でした。出てくる原子はあらゆる方向へばらばらの速さで飛んでいき、向きと速さで選別すると、測定に使える数がほとんど残りません。冷やせば速さはそろいますが、今度は原子が出てこなくなり、100ケルビン(約マイナス173℃)より下ではほぼゼロになります。
超流動ヘリウムがつくる「原子の大砲」
チームが選んだのは、超流動ヘリウムでした。ヘリウムを極低温まで冷やすと、粘り気がまったくない特殊な液体になります。実験では、銅の容器の底に厚さ2ミリの超流動ヘリウムの層を張り、0.2ケルビン、つまり絶対零度(マイナス273.15℃)よりわずか0.2度高いだけの温度に保ちました。
ここへPSIの加速器で作った反ミューオンを斜め上から撃ち込みます。反ミューオンは液面から平均35マイクロメートル(髪の毛の太さの半分ほど)の深さで止まり、自分が通ったあとに残した電子を1個つかまえてミュオニウムになります。
ここからが超流動ヘリウムの役目です。超流動ヘリウムは不純物をきらう液体で、中にできたミュオニウムは、いわば居心地の悪い状態に置かれます。液面にたどり着いたミュオニウムは、その居心地の悪さのぶんのエネルギーを運動エネルギーとして受け取り、液面に垂直な向きへ勢いよく弾き出されます。筆頭著者のジェシー・チャン氏は、この仕組みを「原子の大砲」と呼んでいます。

測定された速さは秒速およそ2.2キロメートル(論文の値は秒速2180メートル)。弾き出すエネルギーがどの原子でも同じなので、速さのばらつきは秒速150メートル以内に収まり、向きもほぼそろっていました。従来方式でもっとも冷たい100ケルビンの源と比べても、速さの幅は1桁せまくなっています。
量のほうはどうかというと、ヘリウムの中で止まった反ミューオンのうち約8%(8.2%)が、ミュオニウムとして真空中へ出てきました。8%と聞くと少なく見えますが、これは従来方式の最高クラスと同じ水準です。液面まで泳ぎ着くのに約2マイクロ秒、つまり寿命とほぼ同じ時間がかかること、半分は液面と逆の方向へ進んでしまうことを考えると、かなり効率よく取り出せています。
論文には失敗談も載っています。最初は市販の高純度ヘリウムガス(純度99.9999%)を使ったものの、ミュオニウムは1個も出てきませんでした。天然のヘリウムには、軽い同位体のヘリウム3が100万分の1ほど混じっていて、これにぶつかって進めなくなったと考えられています。ヘリウム3を1兆分の1まで取り除いた特別なヘリウムに替えて、ようやくビームが出ました。
真上に飛ぶビームと0.1ナノメートルの落下
こうして質のよいビームはできましたが、重力の測定にそのまま使えるわけではありません。理由は単純で、ビームが真上を向いているからです。液面は水平なので、液面に垂直に弾き出されるミュオニウムは上へ飛んでいきます。落下を見るには、ビームを水平に飛ばし、進むあいだに重力でどれだけ下へずれるかを測らなければなりません。
その「ずれ」がどのくらいかは、論文の設計値から計算できます。測定に使う予定なのは、3枚の細かい格子(すだれ状のスリット)を約9.6ミリ間隔で並べた干渉計という装置です。ミュオニウムが格子から次の格子まで飛ぶ時間は、約4.5マイクロ秒。このあいだに重力で落ちる距離は、およそ0.1ナノメートル。原子1個ぶんほどの幅です。
これを直接目盛りで読むことはできないので、原子が波としてもふるまう性質を使います。ミュオニウムの波が1枚目と2枚目の格子を通ると、3枚目の位置に細かい縞模様(干渉縞)ができます。格子のすき間の周期は100ナノメートル。重力が働いていれば、この縞がわずかに下へずれます。3枚目の格子を上下に少しずつ動かしながら通り抜けてくる原子を数えれば、縞の位置、つまり落ちた距離が分かります。

長く飛ばすほど落ちる距離は大きくなって測りやすくなりますが、そのぶん途中で壊れる原子が増えます。4.5マイクロ秒という時間は、この2つの釣り合いから決まった値です。それでも、3枚の格子を通り抜けるまで生き残るのは、最初の数の2%に届きません。最初に大量の原子が必要になる理由がここにあります。
ビームを水平にする方法として、チームは2つの案を挙げています。ひとつは、超流動ヘリウムの薄い膜でおおった鏡で、上向きのビームを横へはね返す方法。もうひとつは、微細加工したシリコンの構造に、毛細管現象(細いすき間に液体が吸い上げられる現象)で超流動ヘリウムを縦向きに張りつかせ、最初から水平に撃ち出す方法です。鏡を使うと飛ぶ距離が延びて壊れる原子が増えるため、いまは後者の開発に力を入れているとのことです。
重力測定までの道のり
チームの見積もりでは、PSIでもっとも強いミューオンのビームラインにこの方式を持ち込めば、毎秒およそ10万個のミュオニウムが得られ、100日ほどの測定で重力加速度を1%の精度で決められます。ふつうの物質の等価原理は1000兆分の1の精度で確かめられているので、1%は粗く見えますが、第2世代の粒子については、これが最初の測定値になります。
ショーテル教授によると、年内にまず原子ビームで干渉計の方式を試し、うまくいけば本番の重力測定は2〜3年後になる見通しです。PSIでは加速器の改修計画(IMPACT)が進んでいて、完成すればミューオンのビームは現在の100倍に強くなります。測定の精度は原子の数で決まっているので、そのまま精度の向上につながります。
もしミュオニウムの落ち方がふつうの物質と違っていたら、重力・電磁気力・強い力・弱い力に続く、未知の「第5の力」の手がかりになりえます。ただしショーテル教授自身は、それを狙っているわけではないと話しています。等価原理が第2世代の粒子にも成り立つのかどうかを初めて測ること、それだけで十分にやりがいのある仕事だ、という立場です。
なお、このビームは重力以外にも使い道があります。原子が散らばらずにまとまって飛ぶので、レーザーを当てて調べる分光実験では、従来の約800倍の数の原子を一度に狙えます。ミューオンの質量をいまより精密に決める実験も、同じチームの次の目標に入っています。
出典
論文(全文無料):J. Zhang, A. Soter ほか「Generation of a high-intensity, superthermal muonium beam for gravity and laser spectroscopy experiments」Nature Physics、2026年9月14日
https://www.nature.com/articles/s41567-026-03433-x
ポール・シェラー研究所のプレスリリース(2026年9月15日)
Novel Particle Beam Could Challenge Einstein’s Theory of Gravity
反水素の落下を確かめたALPHA実験の論文(Nature、2023年)
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06527-1
ScienceAlertの記事(2026年9月18日)
Physicists Build a ‘Mad-Scientist’ Antimatter Beam to Test Einstein’s Theory of General Relativity


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