亡くなったあとに脳を研究に提供した約1,500人から、額のうしろにある「前頭前野」の細胞核を630万個以上取り出して、1つずつ遺伝子の働きぶりを読み取る。そんな力技の研究が、2026年9月23日に8本の論文としてまとめて発表されました。中心となる3本はNature本誌に載っています。
できあがったのは、前頭前野がどんな細胞でできていて、その中でどの遺伝子が働いているかを、年齢別・細胞の種類別に並べた一覧表です。研究チームはこれを「アトラス(地図帳)」と呼んでいます。まとめたのは、ニューヨークのマウントサイナイ医科大学アイカーン校のパノス・ルソス氏らが率いる「PsychAD」という研究グループで、2019年から続けてきた作業の集大成にあたります。
額のうしろにある、段取りの担当部署
調べた場所は、前頭前野の中でも「背外側前頭前野(はいがいそくぜんとうぜんや)」と呼ばれる区画です。計画を立てる、やることに優先順位をつける、気が散らないようにする、感情にブレーキをかける——いわゆる段取りや自制に関わる働きを受け持っています。
ここが選ばれたのは、いくつもの脳の病気がこの区画の不調と結びついているからです。今回のデータには、健康だった提供者のほかに、アルツハイマー病・レビー小体型認知症・血管性認知症・パーキンソン病・タウオパチー・前頭側頭型認知症・統合失調症・双極性障害という8つの診断を受けた人の脳が含まれています。もっとも多いのはアルツハイマー病で500人、次いで統合失調症が120人、レビー小体型認知症が112人。複数の診断が重なっていた人も少なくありません。
これまでのこの手の研究は、特定の年代だけ、あるいは特定の病気だけを対象にしたものがほとんどで、規模も小さめでした。病気ごとにバラバラに調べると、複数の病気に共通する仕組みが見えにくくなります。かといって既存のデータを寄せ集めると、測定方法の違いが「病気による差」のように見えてしまう。同じ場所を同じやり方でまとめて調べたところに、この研究の狙いがあります。
細胞を1つずつ読む方法
使われたのは「単一核RNAシーケンス」という手法です。細胞の中では、働いている遺伝子からRNAという写しが作られます。そのRNAを読めば、その細胞がいま何をしている細胞なのかが分かる。これを組織のかたまりごとではなく、細胞の核ひとつひとつについて行いました。
読み取れたのは630万核以上。それをRNAのパターンごとに仕分けると、大きく8つのクラスに分かれ、さらに細かく27の下位区分、最終的に65のタイプにまで分けられました。中身は、信号を出す興奮性ニューロンと、それを抑える抑制性ニューロンだけではありません。ニューロンを支えるアストロサイト、脳の免疫役であるミクログリアなどの免疫細胞、神経線維に絶縁のさやを巻くオリゴデンドロサイトとその前段階の細胞、そして血管まわりの細胞も入っています。脳を「ニューロンの集まり」と考えると半分も見えない、ということがそのまま数字に出た形です。
データのばらつきを分解すると、いちばん大きな要因は細胞の種類で、全体の50.5%を占めました。二番目は人と人の違いです。ルソス氏は、このデータを使う研究者に対して、1つの核を1人分の独立したデータのように扱わないよう注意を促しています。同じ人から取れた核どうしは、どうしても似てしまうからです。

一生を3つに割ると見えてくる形
上の図のように多様な細胞が、年齢とともにどう変わるのか。この点を調べた基盤論文では、病気の診断がついていない健常な提供者284人ぶん、130万核以上を取り出して解析しています。年齢は0歳から97歳まで。病気の影響を混ぜずに「ふつうの加齢」の姿を出すために、あえて対象を絞った形です。
その結果、遺伝子の働き方の変化は、一直線でも一定のペースでもなく、3つの時期に分かれていました。
最初は、生まれてから大人になるまでの激しい時期。ニューロンやグリア細胞が作られ、配線が組まれていく段階で、遺伝子の働き方は目まぐるしく入れ替わります。
次が、そこから中年までの長い安定期。Natureのニュース記事では24歳以降、論文本体では20〜30代から50代あたりを「比較的静か」と表現していて、区切りの置き方に多少の幅はありますが、成人期の大半で大きな変化が見られないという点は共通しています。数十年にわたって、遺伝子の働き方はほとんど動きません。
そして3つめ。60〜65歳ごろから、ふたたび変化が始まります。

2度目の変化を起こしている細胞
「65歳からもう一度作り直しが始まる」と聞くと、ニューロンが作り替えられる場面を思い浮かべたくなります。しかし、この時期に動いていた中心はニューロンではありませんでした。
目立って変わっていたのは、グリア細胞と免疫細胞——つまり、ニューロンを支える側です。ルソス氏は、後半生の変化が特にグリアと免疫の細胞に現れると説明しています。免疫の働き、ストレスへの反応、そして体内時計に関わる遺伝子が、この時期に動きはじめる。
体内時計については、健常な成人およそ200人ぶんのデータから、60歳以上で「時計遺伝子」のリズムが乱れていることが示されました。ただしこれは、亡くなった時刻がそれぞれ違う提供者のデータを並べ直して再構成したリズムであって、誰か個人の睡眠を直接測ったものではありません。ルソス氏自身、加齢と体内時計について仮説を立てるための材料であって、実際の睡眠の変化を測ったわけではない、と断っています。
脳の老化というと、ニューロンが減っていく話として語られがちです。この地図が示したのは、少なくとも遺伝子の働き方という切り口では、後半生に動いているのは裏方のほうだ、という形でした。
病気の脳との突き合わせ
健常な脳の「ふつうの姿」が出そろうと、病気の脳との比較ができるようになります。
細胞の構成比を調べたところ、アルツハイマー病やパーキンソン病といった神経変性の病気では、ニューロン以外の細胞が通常より多くなっていました。一方、統合失調症や双極性障害といった精神疾患では、大脳皮質の深い層にある興奮性ニューロンが多いという逆向きの傾向が出ています。
さらに、この2つのグループは、違う病気でありながら同じ遺伝子の働き方の変化を共有していました。多くは細胞の基本的な働きに欠かせない遺伝子です。別々に研究していたら見えにくかった重なりが、同じ土俵で比べたことで浮かび上がった形になります。
病気の進み方についても、細胞の種類ごとに違う道すじをたどることが、ニューラルネットワークを使った解析から示されました。遺伝子の働き方が進行に合わせて一直線には変わらず、むしろ進行そのものに影響しうる、という見方です。
もうひとつ、これまでのこの分野の弱点だった点にも手が入っています。参加者のうち439人が、ヨーロッパ系以外または混合の祖先を持つ人たちでした。この規模でヨーロッパ系以外を含めた解析は初めてで、祖先が違っても共通する細胞レベルの仕組みが見えたと評価されています。ただし研究に関わっていない専門家からは、それでも代表されていない集団が多く残っている、という指摘も出ています。
地図ができたあとに残る仕事
このデータは公開されていて、誰でも使えます。実際、別の研究チームがすでに自分たちの多層データと組み合わせて検証に使う計画を語っています。
ただし、何が分かったかと同じくらい、何が分かっていないかもはっきりしています。
まず、調べたのは前頭前野の一区画だけです。ルソス氏も、脳の病気を知るための重要な窓ではあるが、全体像をつかむにはほかの領域も必要だ、と述べています。
そして、すべて亡くなったあとの脳から取られたものです。そこに残っているのは、その人が生きてきた時間の積み重ねの結果であって、何が原因で何が結果なのかは、この地図だけでは分けられません。複雑な病気については、仮説を立てて「次はどこを見ればいいか」を示すための資料と考えるのが妥当だ、という見方が研究者側からも出ています。
研究チームが次に挙げているのは、対象とする脳の領域と集団を広げること、遺伝子の働き以外の測定と組み合わせること、そしてこの地図が示した仕組みを実際に確かめることです。地図は、目的地ではなく出発点として作られた、ということなのだと思います。
出典
- Landmark map of human brain’s gene activity holds clues to Alzheimer’s disease and more(Nature ニュース)
- Lifespan single-cell transcriptomic atlas of the human prefrontal cortex(Nature・基盤論文)
- Single-cell atlas of transcriptomic vulnerability across brain disorders(Nature)
- 8本の論文をまとめたコレクションページ(Nature)
- Prefrontal cortex has three transcriptomic acts across human lifespan, new atlas suggests(The Transmitter)
- Population-scale cross-disorder atlas of the human prefrontal cortex at single-cell resolution(Scientific Data・データセットの詳細)


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