カエサルが書いた「自ら焼いた町」、パリの病院の中庭から焼けた城壁が出てきた

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パリのノートルダム大聖堂のすぐ隣に、オテル・デュー(Hôtel-Dieu)という病院があります。9世紀に創設されたパリ最古の病院で、いまも救急を受け入れて動いている現役の医療機関です。その中庭を掘っていた考古学者たちが、表面が黒く焼け焦げた石と木の壁を見つけました。長さはおよそ20メートル。放射性炭素年代は紀元前200年から前10年のあいだを示し、壁の足元にはガリア人の槍の穂先が落ちていました。

フランス文化省とイル・ド・フランス地方文化局(DRAC)は2026年9月23日、この壁が「ガリア時代のルテティア」の城壁である可能性が高いと発表しました。ルテティアはパリの前身にあたる町の名前です。ただしガリア時代のルテティアについては、これまでユリウス・カエサルの書いた文章しか手がかりがなく、物としての証拠は一つも見つかっていませんでした。

カエサルが書き残した町

紀元前1世紀、いまのパリのあたりにはパリシイ族というガリア人(ケルト系の人々)が住んでいました。カエサルは『ガリア戦記』の中で、彼らの中心地ルテティアを「セーヌ川の中の島にある町」と記しています。紀元前53年には、カエサル自身がこの町にガリア諸部族の代表を集めて会議を開いてもいます。

翌紀元前52年、ガリア全土でローマに対する大反乱が起きました。カエサルは副将のティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を預けてパリシイ族の討伐に向かわせます。これがルテティアの戦いです。ローマ側の勝利で終わるのですが、『ガリア戦記』には印象的な一節があります。ローマ軍が迫るなか、ガリア側は町に自分たちで火をかけ、島につながる橋を落とした、というものです。町をそのまま敵に渡すより、焼いてしまうことを選んだわけです。

その後この地にはローマ風の都市が築かれ、名前はそのままルテティアと呼ばれ続けました。それがのちにパリになります。文献の上では、話はきれいにつながっています。

石と木を組んだガリア式の壁

今回の発掘は、オテル・デューの病院部分を建て直す工事に先立って、2026年2月から続けられているものです。フランスでは大きな工事の前に、地下に遺跡がないか調べる「予防考古学」の制度があります。ここでは、パリ市の考古学部門(DHAAP、責任者は David Couturier 氏)と国立予防考古学研究所(Inrap)が発掘を担当し、DRACが指示と監督にあたっています。

当初の目当ては、ローマ時代の住居や道路、中世や近世の生活の跡でした。ところが夏になって、それらとは性格の違うものが出てきました。大きな石のブロックを、木の梁を格子状に組み合わせながら積み上げた壁です。この造りは、ガリアの砦に特有の築城法として知られています。ローマ側からは「ガリアの壁(ムールス・ガリクス)」と呼ばれ、カエサル自身が『ガリア戦記』で、木の梁のおかげで火にも攻城兵器にも強い、と解説している構造です。

DRACのパリ担当保存官ドロテ・シャウイ=ドゥリュー(Dorothée Chaoui-Derieux)氏は、大きな石と梁を組み合わせたこの構造を見た時点で、ガリア伝統の壁だとすぐに思い当たったと話しています。

そして壁には、激しい火事の跡がありました。表面の化粧石は炭化し、まわりからは焼けた種子が出てきました。壁のすぐ前には、火で壊れた木造建物の残骸が残っていました。壁の背面には砂と砂利を厚さ2メートルも積み上げた人工の土台があり、ちょっとした囲いではなく本格的な城塞(じょうさい)だったことをうかがわせます。

周辺の遺物も時代をそろえて出てきています。壊れたアンフォラ(運搬用の陶器の壺)の破片、貨幣が1枚、そしてガリア製の鉄の槍の穂先。木材の放射性炭素年代測定の初期結果は、紀元前200年から前10年という範囲を示しました。紀元前52年はきれいにこの中に収まります。

じつは決まっていなかったパリの出発点

ここまで読むと、カエサルの記述の裏付けが取れた、という話に聞こえます。もちろんそれも大きいのですが、フランスの考古学者たちが「歴史的な発見になりうる」と言っているのには、もう一段の理由があります。

ガリア時代のルテティアが本当にシテ島にあったのかどうか、これまで誰も証明できていなかったのです。

根拠は二つしかありませんでした。一つは、ルテティアという地名がローマ都市にも引き継がれていること。もう一つは、カエサルが書いた「川の中の島に、橋でつながった町」という描写がシテ島の姿に合うこと。どちらも状況証拠です。19世紀にテオドール・ヴァケールという考古学者がこの一帯を掘り、ローマ時代の重要な遺構を見つけましたが、ガリア時代の層からは決め手が出ませんでした。

そのうちに、別の候補地まで出てきました。パリの西、セーヌ川をさかのぼった先にあるナンテール(Nanterre)です。ここで大規模なガリア時代の集落跡が見つかったことから、「カエサルの言うルテティアはじつはナンテールで、のちのローマ都市とは別の場所だったのではないか」と考える研究者もいました。DRACのステファヌ・デシャン氏も、シテ島に確たる証拠がなかったために、ナンテール説を唱える人がいたことを認めています。

つまり、「パリはガリア人の町の上に築かれた」という、パリ市民なら誰でも聞いたことのある話は、ずっと仮説のままだったわけです。

今回の壁が本当にパリシイ族の砦の城壁であれば、この問題が動きます。ガリアの町とローマの町が同じ島の上に重なっていたことになり、パリという都市の出発点をようやく地面の上で指せるようになります。火事の跡は、カエサルが書いた「住民が自ら焼いた」という一節と物として対応する、初めての証拠になります。

壁はその場に残せない

ただ、担当者たちはまだ言葉を選んでいます。文化大臣のカトリーヌ・ペガール氏は現地を訪れた際、ガリア時代のルテティアを理解する上で最も重要な遺構の一つかもしれないとしつつ、壁の役割と年代はまだ検証が必要で、いまは「手がかりがそろってきた」段階だと話しました。カエサルとの結びつきは、現時点では有力な仮説です。

このため9月中旬、地域の考古学委員会はこの発見を「特別に重要」と認定し、DRACは追加の発掘を指示しました。壁が何のためのものだったか、いつ造られ、いつ捨てられたのかを絞り込み、背面の土台の下にさらに古い生活の跡がないかも調べます。パリ市考古学部門のジュリアン・アヴィナン氏は、次は住居や穀物倉、貯蔵穴などを探すことになると地元メディアに話しています。これが純粋な軍事拠点だったのか、人の暮らす町でもあったのかは、まだ分かっていません。

もう一つ、残念な事情もあります。この壁は病院の建て替え工事の範囲内、しかも深い場所にあり、火で焼かれたためにひどく脆くなっています。DRACは、現在の工事計画のもとで壁をその場に保存することは難しいとしています。代わりに型取りを行い、調査が終わったあとに、元の化粧石を組み込んだ形で一部を復元して、いずれパリの博物館で公開する方向で検討が進んでいます。あわせて3D写真測量で記録を取り、デジタル上で誰でも見られるようにする計画です。

2000年以上前、住民が敵に渡さないために自分たちで焼いた壁が、こんどは病院の工事のために掘り出されて、また別の場所へ移されていく。パリのまん中で起きていることとしては、なかなか因縁の深い話です。上に載せた2枚は想像図で、実際の発掘現場の写真は下の文化省のページで見られます。

出典

Découverte archéologique majeure à Paris : le rempart de la Lutèce gauloise mis au jour|フランス文化省・DRAC Île-de-France(2026年9月23日)

Découverte archéologique : le rempart de Lutèce Gauloise retrouvé sous l’Hôtel Dieu AP-HP à Paris|フランス文化省 プレスリリース

Cette découverte archéologique exceptionnelle pourrait changer l’histoire de Paris|パリ市

Missing Celtic fort annihilated by Julius Caesar finally found under Paris hospital|Live Science

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