冷凍機のない量子コンピュータ「春海」が日本で動き始めた

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愛知県岡崎市にある分子科学研究所で、量子コンピュータ「春海(しゅんかい)」が動き始めました。原子を1個ずつ光でつかまえて計算の部品にする「中性原子方式」で、日本ではこれが最初のフルスタック機です。発表は2026年8月24日、海外でもLive Scienceが9月下旬に取り上げました。

量子コンピュータと聞いて思い浮かぶのは、天井から吊り下がった金色のシャンデリアのような装置ではないでしょうか。あれは超伝導方式の冷凍機で、中の回路を絶対零度のごく近くまで冷やして動かします。春海にはあの冷凍機がありません。装置そのものは室温の実験室に置かれています。

原子を1個ずつ光でつかまえる

中性原子方式の仕組みは、名前のとおり「原子そのもの」を量子ビットに使うことです。量子ビットは量子コンピュータの情報の最小単位で、ふつうのコンピュータのビットが0か1のどちらかしか取れないのに対し、0と1を重ね合わせた状態を持てます。

原子をつかまえる道具が「光ピンセット」です。レーザー光を対物レンズで一点に強く絞ると、その焦点に原子を引き寄せてとどめておけます。この光の点を格子状にたくさん並べれば、原子が1個ずつ整列した「原子の配列」ができあがります。計算はマイクロ波やレーザーを原子に当てて状態を操作することで進め、結果は原子1個1個が出す蛍光をカメラで撮って読み取ります。

この方式の売りは、冷凍機が要らないことだけではありません。原子は光で持ち上げて動かせるので、計算の途中で量子ビットの並びを組み替えられます。超伝導方式では回路の配線で決まってしまう「どの量子ビットとどの量子ビットを絡ませるか」を、その都度自由に選べるわけです。原子は互いにまったく同じ性質を持つので、量子ビットの数を増やすのも比較的やりやすいとされています。

「フルスタック」というのは、ユーザーが計算内容を入力してから、それが装置を動かす信号に変わり、計算が実行されて結果が返ってくるまでの各段階を、ひとつのシステムとしてそろえたという意味です。パソコンやスパコンがまさにそれで、量子コンピュータの世界では「原子をつかまえて操作する実験装置」はあっても、ソフトから装置までひとつながりになった機体はまだ数えるほどしかありません。春海では、分子研が中心となって、ソフトウェア層を日立製作所、計算を担う量子処理ユニットを米国のInfleqtion社とそれぞれ共同で開発しています。

冷やしていないのは装置であって、原子ではない

ここで「冷やさずに動く」という言い方を、もう一段だけ掘り下げてみます。

中性原子方式で光ピンセットにつかまっている原子は、じつは極端に冷たい状態にあります。光ピンセットで原子をとどめておくには、原子の動きをほとんど止めておく必要があり、そのためにレーザーで原子の運動を奪う「レーザー冷却」を使います。この方法で原子が落ち着く温度は、絶対零度から1000分の1度よりもずっと低いところです。超伝導方式の冷凍機が回路を冷やす温度が絶対零度から100分の1度ほどですから、温度の数字だけを見れば、春海の中の原子のほうが超伝導チップより冷たいことになります。

それでも冷凍機が要らないのは、冷やす相手が「チップと配線をまるごと」ではなく、「真空容器の中に浮いている原子数十個」だけだからです。その数十個は、レーザー光で直接冷やせます。周りの容器も壁も室温のままで構いません。つまり春海は「冷やさない量子コンピュータ」というより、「冷やす範囲を極限まで絞り込んだ量子コンピュータ」と言ったほうが実態に近いと思います。

そう考えると、超伝導方式で冷凍機が大きくなる理由も見えてきます。量子ビットを増やすほど冷やすべき回路と配線が増え、冷凍機もそれに合わせて育てなければならない。原子方式はレーザーの点を増やせば量子ビットが増え、冷やす手間は原理的にはあまり変わりません。「拡張しやすい」と言われるのは、この構造の違いが効いています。

50から500、そして1万へ

現在の春海は50量子ビット程度で動いていて、構成としては500量子ビット程度まで広げられる設計です。研究チームはこれを、内閣府とJSTのムーンショット型研究開発事業の中で、最終年度にあたる2030年度末(2031年3月)までに物理量子ビット1万個の規模へ持っていく計画を掲げています。Live Scienceは、2025年10月にカリフォルニア工科大学が示した6100原子の配列を引き合いに出しつつ、それを上回る規模だと書いています。

ただし、量子ビットの数だけが目標ではありません。量子ビットは外からの影響で状態が壊れやすく、計算の途中でエラーが入り込みます。それを見つけて直す「量子誤り訂正」が実用化の鍵で、1万個というのはこの誤り訂正を実際に回すのに必要な「物理」量子ビットの数です。誤り訂正では多数の物理量子ビットを束ねて、信頼できる1個の「論理」量子ビットを作るので、使える論理量子ビットの数は1万よりずっと少なくなります。ここは数字の大きさに引きずられないように読んでおきたいところです。

春海の役割のひとつは、まさにこの誤り訂正の実証です。研究チームは春海を部分的に外部の研究者へ開放し、アプリケーション開発や誤り訂正の検証に使ってもらう予定だと述べています。大森賢治教授は、理論やソフトウェアの研究者による外部利用が誤り訂正技術の開発につながること、さらに分子研にあるスパコンの共同利用施設と組み合わせた量子・GPUハイブリッドの計算センターへの発展にも期待を寄せています。

暦を作った天文学者の名前

「春海」という名前は、江戸時代前期の天文暦学者・渋川春海に由来します。それまで中国から輸入した暦を使っていた日本で、自分たちの観測にもとづく暦「貞享暦(じょうきょうれき)」を初めて作った人物です。天球の上で天体の動きを計算する仕事が、量子ビットの状態を表す「ブロッホ球」という球面上で状態を操る量子計算を思わせる、というのが命名の理由として挙げられています。精密な計算で日本初の暦を生み出した人にあやかって、日本初のフルスタック中性原子量子コンピュータにこの名を付けた、というわけです。

読むときの注意点をいくつか書いておきます。まず、今回の情報は査読論文ではなく研究機関の発表です。「日本初」という表記も分子研自身の調査によるもので、2026年8月時点で公表されている国内の中性原子方式を対象に確認した、と注記があります。50量子ビットという現在の規模は、超伝導方式ですでに数百〜千量子ビット級の機体があることを考えると、まだ出発点です。これから外部利用の中で、どれだけ安定して長時間動かせるか、誤り訂正がどこまで実証できるかが見どころになります。

冷凍機のない量子コンピュータが、日本の実験室で動き始めた。その中で冷えているのは、目に見えないほど小さな原子の粒だけです。

出典

自然科学研究機構 分子科学研究所「日本初のフルスタック中性原子量子コンピュータ『春海』が稼働」(2026年8月24日)
https://www.ims.ac.jp/news/2026/08/0824.html

大森研究室(分子科学研究所 光分子科学研究領域)のお知らせ
https://ohmori.ims.ac.jp/news/2026/08/25/5737/

Live Science “Japan switches on its first full-stack room-temperature quantum computer — and scientists plan to scale it up to 10,000 qubits”(2026年9月24日)
https://www.livescience.com/technology/quantum/japan-switches-on-its-first-full-stack-room-temperature-quantum-computer-and-scientists-plan-to-scale-it-up-to-10-000-qubits

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