1788年、イギリスの第一次船団(ファースト・フリート)がシドニー湾に到着したとき、オーストラリア大陸にはどれくらいの人が暮らしていたのか。これは長いあいだ、はっきりした答えのない問いでした。理由は単純で、数えた人がいないからです。最初にまとまった推計が出たのは1930年代、入植から140年以上たってからのことでした。
そこに2026年9月、新しい数字が出ました。学術誌「Nature Human Behaviour」に載った論文で、研究チームは入植前の先住民人口を中央値で約222万人と見積もっています。これまで広く引かれてきた数字は25万〜30万人。7倍以上の開きです。
この記事では、なぜそこまで違う数字が出たのか、どんな方法で出したのか、そしてその数字がひとつ書き換わると何が変わるのかを、推定の幅も含めて整理します。
90年前の推計とその前提
従来の通説の元になっているのは、人類学者アルフレッド・ラドクリフ=ブラウンが1930年に出した推計です。オーストラリア統計局の年鑑に載ったもので、彼はそこで、入植前の先住民人口を25万〜30万人と見積もりました。
ただし、本人はこの数字を「最低限」だと書いています。データは乏しく、大部分は信頼できない、とも。入植後に持ち込まれた病気や暴力で人口がすでに大きく減っていたことも、彼自身が認識していました。にもかかわらず、この数字はその後の研究の出発点として定着し、教科書や資料でも長く使われてきました。
その後、100万人程度と見積もる研究者も出ています。今回の発表文でも、従来の推計は「25万〜100万人」という形で幅を持たせて紹介されています。つまり「7倍」というのは、いちばん低い通説と比べたときの倍率です。100万人説と比べれば2倍強になります。
歴史記録に頼らない5つのものさし
今回の研究の特徴は、当時の目撃記録や人口調査を「答え」として使わなかったことです。入植初期の観察記録はどれも、すでに人口が減ったあとの姿を写しています。それを起点にすると、どうしても低めに出てしまう。研究チームはこう考えて、歴史記録とは独立した方法だけを集めました。
使ったのは5つのアプローチです。
- 環境から見た計算機モデル2種:大陸の各地域の環境がどれだけの人を養えるか(環境収容力)を計算し、それを足し合わせる方法。
- 遺伝的な復元2種:現在の先住民のゲノムに残る痕跡から、過去の集団の大きさをさかのぼって推定する方法。
- 考古学の放射性炭素年代:遺跡から出た炭などの年代測定データを大量に集め、その分布の濃さを人口の目安にする方法。
これらは互いに独立した根拠に基づいていて、一つの方法が持つ弱点を別の方法が補います。5つの結果を統計的に重ね合わせたところ、中央値で222万人、大陸全体で見れば3平方キロメートルに1人程度の密度になりました。

上の図のような分布で、海岸部や川沿いに人が集まり、内陸の乾燥地帯は薄くなる、という濃淡が出ています。数字だけでなく「どこに多かったか」も同時に見積もられているのがこの研究の使いどころです。
推定の幅と、著者らが自ら認めている不確かさ
ここは厚めに書いておきます。222万人という数字は「中央値」で、ぴったりこの人数だったという意味ではありません。
論文では、証拠を総合すると「少なくとも100万人以上、より可能性が高いのは200万〜300万人、場合によっては500万人超」と書かれています。上下の幅がかなり大きい。著者ら自身も、使った手法の性質上、推定には大きな不確かさが伴うと明記しています。
実際、この研究の査読前版(2024年に公開されたプレプリント)では中央値が251万人でした。出版版で222万人に下がっています。手法の見直しで数字が動くことを、論文自体がそのまま示している形です。
それでも研究チームが強調するのは、幅の下端をとっても従来の25万〜30万人よりはるかに多い、という点です。「正確な人数」ではなく「桁が違う」ことが、5つの独立した方法から共通して出てきた。ここがこの論文の主張の芯になります。
書き換わった数字で読み直す1861年
入植前の人数が変わると、その後に残された記録の意味が変わります。
1861年ごろの先住民人口は、植民地時代の記録から17万7,000〜19万3,000人と見積もられています。出発点を25万〜30万人とすれば、これは「3割ほど減った」という読み方になります。出発点を222万人とすれば、同じ数字が「約93%が失われ、7%だけが残った」という読み方に変わります。記録の数字は一文字も変わっていないのに、それが指す出来事の規模がまるで別のものになる。今回の研究がもたらすいちばん大きな変化はここです。
研究チームはこの差分から、1788年から1861年までの73年間の「超過死亡」を中央値で約206万人、年平均でおよそ2万8,200人と計算しています。原因として挙げられているのは、まず持ち込まれた病気による死亡、そして直接・間接の暴力です。不確かさの幅をとると、総数は約70万人から420万人のあいだになります。
また論文は、入植から60年足らずの1847年には、入植者側の人口が先住民の人口を上回ったとしています。
数字の扱いについて一点。「超過死亡」は、入植前の人口と1861年の記録をつなぐために、人口モデルの上で「これだけの死亡がなければ計算が合わない」として算出された量です。個々の死亡が記録されているわけではありません。研究チームもこの点は、モデルからの推定値として提示しています。
現在は入植前の37%、回復は2047年ごろの見込み
先住民人口は1950年代以降増加に転じていますが、2021年の国勢調査の値は、今回の入植前推計(中央値)の約37%にとどまります。現在の成長率が続いた場合、1788年の水準に戻るのは2047年ごろになる、と研究チームは計算しています。入植から260年近くかかることになります。
筆頭著者のアラン・ウィリアムズ氏(EMMコンサルティング/ジェームズ・クック大学)は、この結果が入植の影響の大きさを示すと同時に、その後の1世紀にわたる先住民の存続と回復も示していると述べています。研究に資金を出したオーストラリア研究会議のセンター(CIEHF)の側からは、先住民の研究者であるラリッサ・ベーレント氏が「1788年以降に起きたことの規模を考え直すよう求める結果だ」とコメントしています。
研究チームは合わせて、歴史記録が不完全だったり偏っていたりする場合には、複数の独立した方法で人口史を復元することが重要だと述べています。今回の方法論は、同じような事情を抱える他の地域にも応用できる可能性があります。
読むときに押さえておきたいこと
最後に、この数字を引くときの注意点を並べておきます。
まず、222万人は推定の中央値であり、幅は100万人強から500万人超まであります。「222万人だった」と断定する書き方は、論文の主張より強くなります。
次に、「7倍」は最も低い従来説との比較です。比較対象によって倍率は変わります。
そして、この研究はオーストラリアの研究者チームが、先住民の研究者・パートナーとともに進めたものです。論文や発表では入植を「invasion(侵略)」と表現しており、この記事で「入植」と書いている部分は、論文の言葉づかいと必ずしも一致しません。原文の立ち位置を知りたい方は、下の出典から発表文と論文を直接確認してください。
出典
- 論文(Nature Human Behaviour、2026年):Large size of the Australian Indigenous population prior to its massive decline following colonial invasion(本文は有料の可能性があります)
- フリンダース大学の発表文(Scimex経由):Pre-European Indigenous Australian population was much larger than previously thought and decimated after arrival of First Fleet
- 査読前版(Research Square、2024年):Large size of the Australian Indigenous population prior to its massive decline following European invasion
- ScienceAlertの解説記事:Australia’s Indigenous Population Was 7 Times Larger Than Estimated, Study Finds
- ラドクリフ=ブラウンの1930年の推計(オーストラリア統計局):Official Year Book of the Commonwealth of Australia, 1930(PDF)


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