空いた脳にヒトの神経が根づく——「賢いマウス」は生まれなかった

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脳の研究には、ほかの臓器にはない壁があります。生きている人の脳を開いて調べるわけにはいかない、という壁です。使っている本人がいる以上、ヒトの脳がどう育ち、どこでどう壊れるのかは、いまだに分かっていないことが多く残っています。

その回り道として、この10年ほどで広がったのが脳オルガノイドです。ヒトのiPS細胞から育てた数ミリほどの立体的な神経組織で、「ミニ脳」と呼ばれることもあります。ただ、皿の中で育てたオルガノイドには、血管も、感覚器からの入力も、動かす体もありません。信号の行き先がない神経組織で分かることには限りがあります。

2026年9月16日付のNatureに、スタンフォード大学のセルジウ・パシュカ氏の研究室が発表したのは、大脳皮質を持たないように作ったマウスにヒトの脳オルガノイドを移植し、空いた領域の9割以上をヒト由来の組織で埋めた、という報告です。ヒトの脳細胞を動物に組み込んだ例としては、これまででいちばん広い範囲だとされています。動物実験であり、倫理の議論を切り離せない題材でもあるので、この記事では数字と一緒にそこも書きます。

皿の外へ出たオルガノイド

パシュカ氏らは以前から、オルガノイドを動物の脳に入れる研究を続けてきました。2022年には、生まれたばかりのラットの脳にヒトの大脳皮質オルガノイドを移植し、ヒトの神経細胞がラットの脳の中で成熟して、ヒゲからの感覚入力に反応するようになったことを報告しています。2024年には、その移植ラットを使って、自閉症やてんかんを伴う重い遺伝病であるティモシー症候群に対する核酸医薬の効き目を試すところまで進めました。

ただ、この方法には最初から限界がありました。ラットの脳にはラット自身の皮質がすでにあり、しかもげっ歯類の神経は人の神経よりずっと速く育ちます。ヒトの細胞が突起を伸ばして配線を作りはじめる頃には、周りの空間はラットの細胞に取られている。移植片が占められたのは、片側の皮質の3分の1ほどまででした。

今回の発想はごく単純で、競争相手をいなくする、というものです。南カリフォルニア大学のジョルジア・クアドラート氏は、この研究の本当の新しさは場所の取り合いをなくしたことにある、と評しています。

皮質を空けたマウスの作り方

マウスの大脳皮質と海馬(かいば・記憶に関わる部位)は、Emx1という遺伝子が働く前駆細胞(ぜんくさいぼう・神経細胞のもとになる細胞)から作られます。研究チームは、この前駆細胞でだけ、細胞の生存に必要なEsco2という遺伝子が失われるように仕込みました。すると分裂中の細胞が死んでいき、皮質と海馬がほとんど作られないまま生まれてきます。論文ではこれを「アパリアル(apallial)」マウス、つまり外套(がいとう・大脳皮質のこと)を持たないマウスと呼んでいます。MRIで測ると、脳の組織量は普通のマウスの半分ほどでした。

加えて、ヒトの細胞が拒絶されないように、免疫不全(SCID)の系統をベースにしています。

ここに、生後5〜17日(中央値10日)の子マウスのうちに、培養30〜60日のヒト大脳皮質オルガノイドを左右の脳に2個ずつ、計4個入れました。論文はこの処置を「xenocortication(異種皮質化)」と名づけ、できあがったマウスを「xenocortical(異種皮質)マウス」と呼んでいます。29匹に移植して、生着したのは86.2%でした。

ヒトの組織が空白を埋めるまで

移植片はよく育ちました。MRIで追うと、移植後2か月から3か月のあいだに体積が約4.7倍に増え、3か月の時点で、頭の中にある皮質相当の組織のうち91.9%がヒト由来になっていました(7匹の平均)。

組織の中身も、ある程度は本物に近づいています。細胞ごとの遺伝子発現を調べると、深い層と浅い層の興奮性神経細胞、分裂中の前駆細胞、アストロサイトやオリゴデンドロサイトの前駆細胞といった、発生中のヒト大脳皮質の主な細胞種がひととおりそろっていました。成熟度でいうと、ヒトの胎児の妊娠中期の後半あたりに相当します。

注目されているのが、皿の中のオルガノイドではほとんど作れなかった細胞が出てきたことです。第5層の遠距離投射ニューロン(L5-ET)と呼ばれる、皮質から脳の外まで軸索を伸ばすタイプの神経細胞が、これまでの移植法の3倍以上の割合で含まれていました。さらにその中に、フォン・エコノモ・ニューロンに似た、大きな紡錘形の細胞が見つかっています。人を含む脳の大きい一部の哺乳類だけにあり、げっ歯類にはない細胞で、前頭側頭型認知症で真っ先にやられると考えられています。割合としては蛍光標識された細胞の0.16%と少ないものの、調べた3匹すべてで見つかりました。

そして配線です。移植片から伸びた軸索はマウスの皮質下を通って中脳の上丘(じょうきゅう・視覚に関わる部位)まで達し、逆に、マウス側の視床や旧皮質からは移植片へ入力が届いていました。頸髄(けいずい・首の高さの脊髄)にも、まばらではあるものの、ヒト由来の神経突起が3匹すべてで確認されています。皮質を残したマウスに同じオルガノイドを入れた場合には、脊髄にヒトの突起は届いていませんでした。空間を空けたことが、遠くまで伸びる細胞を育てた、と読める結果です。

電気的にも動いていました。頭蓋骨を透明化してカルシウムイメージングをすると、移植片全体に広がる同期した活動の波が、数十秒続いては数分おきに繰り返されていました。発生初期の神経回路に見られる活動によく似たパターンです。顔面の動きと活動のタイミングが相関していたことも報告されています。

賢くなったマウスはいなかった

次は、マウスの行動です。結論からいえば、ヒトの組織を入れたことでマウスの知能が上がった、という結果は出ていません。

意外なのは、皮質と海馬を失ったアパリアルマウス自体が、思ったより普通に動くことです。体重は軽いものの、歩く速さも、熱や触覚への反応も、対照のマウスと差がありませんでした。細かい歩き方や、行動の切り替わりのパターンには違いが出ています。

Y字迷路の試験では、対照マウスと異種皮質マウスは偶然以上の成績で、直前に入った通路を避けて新しい通路を選びました。アパリアルマウスは偶然と変わりませんでした。ヒトの移植片が作業記憶を支えているように見える結果ですが、パシュカ氏自身は、これだけでヒトの神経細胞が行動を担っていると結論するのは早い、と釘を刺しています。恐怖条件づけのような別の記憶課題では、異種皮質マウスもアパリアルマウスと同じく成績が落ちていました。

ケンブリッジ大学のマデリン・ランカスター氏は、移植のタイミングに注目しています。移植は生後数日、マウスの脳の基本的な配線がすでにできあがった後に行われており、ヒトの細胞が高次の思考を乗っ取る余地はない、という見方です。行動試験でも知能の向上は見られなかったと述べています。パシュカ氏の言葉を借りれば、これは「あくまでマウス」です。マウスの感覚器と、マウスの皮質下構造と、マウスの脊髄を持っていて、ただ皮質の大部分がヒト由来になっている。

研究者が自分で引いた線

ヒトの脳組織を動物の中で育てる研究に抵抗を感じる人がいることは、Natureのニュース記事も認めています。この論文が特徴的なのは、倫理の話が「気になる人のための注釈」ではなく、論文本体の議論に組み込まれている点です。

手続きとしては、通常の動物実験の審査に加えて、スタンフォードの生命倫理学者と、神経科学者・倫理学者・法学者・患者代表からなる外部委員会が関わったとされています。動物の側の論点、つまり、その苦痛は研究内容に見合うのか、ほかの方法で同じ情報が得られないのか、も検討事項として挙げられています。実際、この実験は軽い負担ではありません。皮質を持たない子マウスを生かして育てるために、同じ腹の皮質のある子の大半を間引き、高カロリーの餌や里親を使うといった手順が論文に書かれています。移植後に低酸素(5%酸素で5時間)にさらして脳の損傷を起こす実験も含まれます。

そのうえで研究チームは、論文の考察の最後に、次の段階へ進むには先に倫理の指針を作る必要がある、と書いています。具体的に挙げているのは、より長く成熟させること、皮質の層構造やしわを作ること、興奮性と抑制性の神経のバランスを本物に近づけること、そして、生まれる前の胚のうちに移植して発生の時間差を縮めることや、げっ歯類ではなく霊長類に移植することです。こうした条件がそろうほど、ヒトの組織は動物の中で「より脳らしく」なる。だからその前に、倫理学者・研究者・患者代表・規制当局で話を詰めておく、という順番を明示しています。

今回の移植片は、その線の手前にあります。妊娠中期相当の未成熟な状態で、層構造はなく、抑制性の神経細胞はわずかで、活動パターンも発生初期のものです。研究者側が「まだ複雑なことはできない組織だ」と言える根拠はそこにあります。同時に、その根拠が時間とともに薄れていくことも、論文自身が認めているわけです。

何を調べるための道具か

研究チームがこの系を作った目的は、発生期の脳の病気を、ヒトの神経細胞で、しかも行動まで含めて調べることです。

論文で実際に示されたのは低酸素のモデルです。出産前後の酸素不足は脳性まひの主な原因の一つですが、それがヒトの発生中の皮質に何を起こすかを、人で実験することはできません。異種皮質マウスを低酸素にさらすと、ヒトの移植片で低酸素への応答(HIF1αというたんぱく質の出現)が起き、グリア細胞が増え、2日後の歩行試験では後ろ足の接地が長くなるといった変化が出ました。同じ処置をした対照マウスやアパリアルマウスでは、この歩行の変化は見られませんでした。ヒトの皮質組織に傷がつくと、マウスの歩き方が変わる。この対応が取れることが、薬を試す土台になります。

パシュカ氏が挙げているほかの応用は、前頭側頭型認知症(フォン・エコノモ・ニューロン様の細胞ができたので、患者由来の細胞でその弱さを調べられる)、てんかん(ヒト由来の回路が異常な活動を出すかどうか)、自閉症などの神経発達症です。神経・精神の病気は5人に1人が経験するのに、多くは仕組みが分かっておらず、従来の動物モデルでも皿の中のヒト細胞でも再現しきれない、というのが、この種の研究を進める側の言い分です。

限界も明記されています。移植したのは皮質のオルガノイドだけで、ほかの領域のオルガノイドを入れたときとの比較はまだです。行動の違いがヒトの移植片によるものか、皮質を失ったマウスの脳がそれなりに適応した結果なのかも、切り分けられていません。脊髄への投射やカルシウムイメージングの匹数は3匹で、少なめです。

それでも、皿の中で育てるだけでは届かなかったところまでヒトの神経が伸びたことと、「ここから先は先に決めておく」と研究者側が書いたことは、この分野の現在地として覚えておく価値があります。

出典

Kaganovsky, K. et al. “Developmental xenocortication using human-derived organoids in mice” Nature (2026) DOI: 10.1038/s41586-026-11032-2(オープンアクセス)

Nature ニュース:Human brain cells transplanted into mice in ‘most extensive’ integration ever(2026年9月16日、Max Kozlov)

ScienceAlert:Scientists Grew Human Brain Tissue Inside Mice. Here’s What Happened.(2026年9月16日、Michelle Starr)

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