3,000年前のエジプトの砦に、戦車の馬が丁重に葬られていた

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古代エジプトといえば、二頭立ての戦車を駆るファラオの姿が浮かびます。壁画にも石碑にも、馬は数えきれないほど描かれてきました。ところが、その馬の「骨」となると話は別で、ファラオ時代の馬の遺骸はごくわずかしか見つかっていません。

2026年9月、エジプト観光考古省が、ナイル・デルタ西部の砦の跡から若い雄馬1頭の全身骨格が出たと発表しました。しかも、ただ埋まっていたのではなく、向きを整えて丁重に葬られていたといいます。この記事では、この発見が何を意味するのかを、砦そのものの話から順に見ていきます。

デルタ西端の国境要塞

見つかった場所は、エジプト北部ベヘイラ県のテル・エル=アブカイン遺跡です。ナイル・デルタの西のはずれにあたり、その先はリビア砂漠。新王国時代(紀元前1550年ごろ〜前1070年ごろ)のエジプトは、西から入ってくるリビア系の諸部族に備えて、この方面に砦を並べていました。テル・エル=アブカインはそのうちの一つで、エジプト考古最高評議会の調査隊が数シーズンにわたって発掘を続けています。

今回の発表で中心になったのは、砦の南の出入り口につながる大きな日干しレンガの住居群でした。北側には幅4メートルほどの通りが東西に走り、それと交わる南北の通りもあります。部屋の中には穀物を貯める円筒形の倉や、パンを焼く土のかまど。井戸もありました。要するに、兵士たちが常駐して寝起きし、食事をつくり、物資を管理する「町」がそこにあったわけです。砦というと壁と見張り台ばかりを想像しがちですが、中身はむしろ生活の場でした。

暮らしの道具も一緒に出ています。土器、織機に使うおもり、装身具。それに、ラメセス2世やセティ1世の名を刻んだスカラベ(甲虫の形をした護符)や、守り・豊穣・力を願うお守りの数々。国境の兵士たちが何を身につけ、何に祈っていたかが、断片的にですが見えてきます。

頭の向きまで整えられた馬

その住居群の中から出たのが、問題の馬です。若い雄で、体格は中くらい。予備的な調べでは、スピードと敏捷さに向いたタイプの馬だったとされています。そばには戦車の馬具に使う金具が残っていました。

注目されたのは埋め方です。体の置き方、頭の向き、そして全体がきちんと整っていること。調査隊はこの3点から、この馬は死んだあとに捨てられたのではなく、意図をもって埋葬されたと判断しました。エジプト考古部門の責任者はこれを「敬意を込めた埋葬」と表現しています。

上の画像は想像図です。実際の出土写真は、記事末尾の出典ページで見られます。

戦車の国に馬の骨がない理由

ここで最初の話に戻ります。エジプトは間違いなく「戦車の国」でした。馬と戦車は前2千年紀の前半、ヒクソスと呼ばれる西アジア系の人々がエジプトに持ち込んだとされ、新王国時代にはファラオの軍の中核になっています。カデシュの戦いを描いたラメセス2世の壁画など、馬の図像は山ほどあります。

それなのに、馬の骨そのものは驚くほど残っていません。ラメセス2世が築いた首都ピ・ラメセスでは大規模な厩舎(きゅうしゃ)の跡が見つかっていますが、そこに何百頭といたはずの馬の遺骸は、ほとんど出てきていないのです。

この点を、古代エジプトの馬を専門に研究しているウィーン大学のロネケ・デルプート氏がライブサイエンスの取材に答えて指摘しています。ファラオ時代の馬の遺骸、とくに全身がそろった骨格はきわめて少なく、だから今回の1体は「驚くべき発見」だと。この地域には軍事用の砦がたくさんあるので、砦の中で馬がどう使われていたかを知る手がかりになる、というのが同氏の見立てです。

なぜ骨が残らないのかは、はっきりしていません。ナイル沿いの湿った土は骨に厳しいこと、死んだ馬を人間の墓地のような場所に埋める習慣が一般的でなかったこと、そもそも当時の馬はあまり数が多くなく貴重品だったこと。いくつかの事情が重なっているのだと思います。いずれにしても、図像は豊富、実物は空白。その空白に、頭の向きまで整えられた1体が置かれたのが今回の発見です。

なお、デルプート氏はこの馬を「軍馬」と断定することには慎重です。古代エジプトで何をもって軍馬と呼ぶのか、定義がそもそもないからです。ただし戦車を引く馬であったことは疑いなく、手をかけて葬られていること自体が、この動物がどれほど価値あるものだったかを映している、と話しています。

石板に彫られた縛られた捕虜

馬と並んでこの砦から出たのが、数点の石灰岩の石板です。1枚にはラメセス2世の誕生名・即位名・ホルス名という3種類の正式な名前が刻まれていました。もう1枚は、その息子で後を継いだメルエンプタハ(在位はおよそ紀元前1213〜前1203年)に関わるもので、王の強さをセト神になぞらえ、創造神プタハにも触れています。こちらはヒエラティック(ヒエログリフを崩した速記体の文字)で書かれており、ベヘイラ県の発掘でこの種のメルエンプタハの文字資料が出たのは初めてだそうです。

そして3枚目に彫られていたのが、縛られた捕虜でした。体を前に折り曲げ、両手を後ろで縛られた姿は、エジプト美術で「服従」を表すおなじみの型です。着ているものから、この人物はリビア系のメシュウェシュ族だと判断されました。メシュウェシュは新王国時代の後半、エジプトが西の国境でくり返し衝突した相手で、メルエンプタハもラメセス3世も、リビア人との大きな戦いを記録に残しています。この砦が誰を相手に建てられたのかを、石板が絵で示している形です。

ちなみに、この話には少し先があります。メルエンプタハの時代から300年もしないうちに、エジプトの王座に就いたのはメシュウェシュ族の出身の首長でした。第22王朝を開いたシェションク1世です。石板に縛られた姿で彫られた側の人々が、やがてこの国を治める側に回る。この砦で見張りをしていた兵士は、そんな未来を知りようもなかったわけですが、国境の砦の遺物として見ると、なかなか味のある組み合わせだと思います。

これから分かること

今回の発表は、考古省による発掘の中間報告で、査読を受けた論文として出たものではありません。馬の年齢や体格の見立ても「予備的な調査」の段階です。全身骨格が残っているのは大きくて、これから骨の詳しい計測や年代の測定、可能なら同位体分析(骨の成分から食べていたものや育った土地を推定する方法)などが進めば、この1頭がどこから来て、どう育てられ、何歳で死んだのかまで見えてくるかもしれません。

カナダのマウント・ロイヤル大学で古代の馬を研究するキャロリン・ウィレケス氏は、保存状態のよい馬の遺骸はその個体の一生について多くを語りうるとしたうえで、意図的な埋葬であるらしいこと自体が、古代エジプトにおける人と馬の関係や、馬の文化的な重みを考えるうえでの手がかりになると話しています。

戦車の国の、ほとんど残っていなかった馬。壁画の中で走り続けてきた馬たちに、ようやく実物が1頭ついた、というのが今回の発見の位置づけになりそうです。

出典

3,000-year-old burial of ancient Egyptian horse found — and a nearby stone carving depicts a captured prisoner(Live Science, 2026年9月23日)

Scientists unearth complete remains of Egyptian warhorse given honorific burial some 3,000 years ago(CBS News)

3,000-year-old horse burial and Ramesses II stela found at ancient Egyptian fortress(Archaeology News)

一次情報はエジプト観光考古省の2026年9月16日付の発表で、査読論文ではありません。

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