9月21日は国連の「国際平和デー」です。その日に合わせて、トルコの文化観光相メフメト・ヌリ・エルソイ氏がSNSで一つの発見を発表しました。ヒッタイトの都ハットゥシャの遺跡から出た粘土板のかけらが、カデシュの和約の写しの一部だと確かめられた、という内容です。
カデシュの和約は、現存する最古の平和条約として知られています。エジプトのファラオ、ラメセス2世と、ヒッタイトの王ハットゥシリ3世が、紀元前13世紀に交わしたものです。今回のかけらに刻まれていたのは、条約のなかでも「国から逃げてきた人をどう扱うか」を定めた部分でした。
ハットゥシャの王城から出た粘土板
ハットゥシャは、トルコ中北部のチョルム県、ボアズカレという町のそばにある遺跡です。紀元前17世紀ごろから前12世紀ごろまで、アナトリア中央部を治めたヒッタイト王国の首都でした。
文化観光省の説明によると、かけらが見つかったのは、遺跡の中でも王の宮殿があった高台「ビュユックカレ」の発掘で、「E建物」と呼ばれる建物の近くです。残っているのは片面だけで、文字は楔形文字(くさびがたもじ)。粘土に葦の先を押しつけて刻む、古代オリエントの文字です。
見つけてすぐ「カデシュの和約だ」と分かったわけではありません。発掘から約1年かけて文字を読み解き、すでに知られている条約の文面と照らし合わせた結果、ようやくその写しの一枚に属すると判断されました。

上の画像は想像図です。実際のかけらの写真は、記事の最後に挙げた出典のページで見られます。
戦争の終わりを記した条約
当時、エジプトとヒッタイトは、いまのシリアのあたりの支配をめぐって争っていました。その象徴がカデシュの戦いで、ラメセス2世の治世5年目、紀元前1274年ごろのことです。両軍がぶつかり、どちらも決定的な勝ちを得られないまま終わりました。
和約が結ばれたのは、それから16年ほどたったラメセス2世の治世21年目です。「カデシュの和約」と呼ばれていますが、条文そのものには戦いのことは出てきません。そのため「エジプト・ヒッタイト平和条約」と呼ばれることもあります。
おもしろいのは、同じ条約が二つの国の、まったく別の形で残っていることです。エジプト側の文面は、テーベ(いまのルクソール)の神殿の壁にヒエログリフで刻まれました。ヒッタイト側では、当時の国際的な外交の言葉だったアッカド語で粘土板に書かれています。ハットゥシャでは1906年から1912年にかけての最初の本格的な発掘で、この粘土板のかけらがいくつも見つかりました。いまはイスタンブール考古学博物館、アンカラのアナトリア文明博物館、ベルリンの古代オリエント博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に分かれて収められています。
ニューヨークの国連本部にはこの粘土板のレプリカが飾られていて、国連は条約の中身を、永遠の友好・不可侵・相互援助などを誓ったもので、国連の理念に通じると紹介しています。今回のかけらは、そこに一片が加わった形です。
送り返す、ただし罰しない
「3,000年以上前の平和条約に、難民の扱いが書かれていた」と聞くと、逃げてきた人を守る取り決めを思い浮かべるかもしれません。実際の中身は、少し違います。
今回のかけらが属するのは、条約の12〜20条にあたる部分です。ここで決められているのは、エジプトからヒッタイトへ逃げてきた者はエジプトへ、ヒッタイトからエジプトへ逃げてきた者はヒッタイトへ、それぞれ送り返すということでした。当時、国を捨てて逃げることは罪とされていて、王どうしで逃亡者を引き渡し合う約束だったわけです。
ただし、条文には続きがあります。送り返された人を罰してはならない、と書かれているのです。舌や目を抜いてはならない、耳や足を切ってはならない、その人の家を、妻や子どもごと壊してはならない。罰の中身まで一つずつ挙げて、それを禁じています。
文化観光省によると、今回のかけらは欠けている部分が多いものの、読めるところには、エジプトとハッティ(ヒッタイトの国)から逃げた人々のことと、家を壊してはならないという文言が残っていました。
いまの国際社会には、迫害のおそれがある国へ難民を送り返してはならないという原則があります。1951年の難民条約に書かれたもので、カデシュの和約はそれとは逆向きです。送り返すことが前提になっています。それでも、国境を越えて逃げた一人ひとりについて、戻されたあとの身の安全まで条文に書き込んでいる。王と王の取引の文書の中に、名前も出てこない人々の体と家が、はっきり書かれていることになります。

まだ分かっていないこと
今回の話は、トルコ政府の発表として出てきたものです。査読を受けた論文はまだなく、かけらを読み解いた研究者や発掘チームの名前も公表されていません。大臣は発掘チームと研究者をねぎらっていますが、どの文字がどう読めたのかという細かい中身は、これから論文などの形で出てくるのを待つことになります。
年代の数字にも少し幅があります。英語の報道では「3,400年前」「紀元前1269年ごろ」と書かれていますが、ラメセス2世の治世21年は、一般に使われる年代で数えると紀元前1259年ごろ。いまから約3,300年前です。古代エジプトの年代は研究者によって10年ほどずれることがあるので、この記事では「紀元前13世紀」としています。
ビュユックカレでの発掘は続いていて、文化観光省は、条約の欠けている残りのかけらも見つけることを目指しているとしています。100年以上前に掘り出されたかけらと、今回のかけら、そしてこれから出てくるかもしれないかけら。3,300年前に粘土へ刻まれた条文は、いまも少しずつ埋まっている途中です。


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