5000年前のエジプトに「女王」ではなく「王」だった女性がいた

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古代エジプトで女性が国を治めた例といえば、ハトシェプスト、ネフェルティティ、クレオパトラの名前がすぐに挙がる。ただ、いずれも紀元前1500年より後の人たちだ。それより1500年ほどさかのぼった第1王朝、つまりエジプトに王が生まれてまもない紀元前3000年ごろに、王の妃でも王の母でもなく「王そのもの」として扱われた女性がいた、とする論文が2026年9月に出た。

名前はメルネイト(Meretneith。メレトネイトとも書く)。「女神ネイトに愛された者」という意味だ。プラハのカレル大学のエジプト学者スー・ケリー氏と、ブカレスト大学のクリスタル・ミラー氏が、『Prague Egyptological Studies』誌に発表した。目新しい発掘品が出たわけではない。80年前の発掘写真を、いまの画像処理で読み直しただけだ。それでも、100年以上くすぶってきた「彼女は王だったのか、それとも王の妃止まりか」という議論に、ひとつの区切りをつけようとしている。

王と妃の違いを決める「王名枠」

先に、この話の肝になる仕組みを押さえておく。第1王朝の王の名前は、「セレク」と呼ばれる長方形の枠の中に書かれた。枠の下半分には王宮の正面を模した縦縞の模様、枠の上には王権の守護神であるハヤブサ神ホルスが止まる。この枠に名前を入れられるのは、王ただひとりだ。妃にも王子にも許されない。だから第1王朝の人物が王だったかどうかを決めるとき、エジプト学では「その人の名がセレクに入っているか」が最初の判定基準になる。

メルネイトの場合、この判定がずっと宙に浮いていた。彼女の名前は、アビドスの王墓群にある自分の墓の石碑、墓から出た石の器、後の王の墓から出た封泥(ふうでい。壺の口や結び目を粘土でふさぎ、印章を押したもの)など、あちこちに残っている。ところが、どれにもセレクが付いていない。石碑には名前だけ。器には名前と役所の名前だけ。「王の母」という肩書きは出てくるが、「王」そのものを示す枠は見当たらない。だから長いあいだ、彼女は「王の娘で、王の妻で、幼い王の代わりに国を切り盛りした摂政」という扱いだった。

唯一の例外が、1946年にサッカラの墓S3503から出た13点の泥栓だ。壺の口をふさぐ円錐形の粘土の栓に、印章がころがして押してあり、そこに4つのセレクが横一列に並んでいた。発掘したウォルター・エメリーは、1番目と4番目が第1王朝3代目の王ジェルのものだと確認した。問題は2番目と3番目である。ジェルの名前は入っておらず、枠の上に止まっているのもホルスのハヤブサではなかった。エメリーは後に、これはネイト女神の印(交差した2本の矢)を頂いたメルネイトのセレクだと解釈した。

白黒写真1枚から復元された印影

ところがこの解釈は、同じ分野の研究者にすんなり受け入れられなかった。理由のひとつは単純で、発表された写真と線画が不鮮明だったからだ。もうひとつは、枠の中に鍬(くわ)の記号が2つ並んでいたことだ。彼女の名前を書くときの鍬の記号は、他の資料ではふつう1つで、この2つ並びをメルネイトと読んでよいのか、という疑問が出た。そのうちに、決定的なことが起きる。泥栓の実物も、エメリーが撮影したガラス乾板も、所在がわからなくなったのだ。

現物がなければ、いまの考古学で定番になっている反射変換画像法(光の当て方を変えた多数の写真から凹凸を浮かび上がらせる方法)は使えない。残っていたのは、発掘記録に綴じられた白黒写真1枚だけである。ケリー氏とミラー氏は2022年、エジプト探査協会の協力でこの写真を高解像度でスキャンし、そこから印影を起こし直す方法を組み立てた。

やり方は、意外と地味だ。まず写真のコントラストを補正する。次に、岩絵の研究で使われる色強調の手法を試したが、白黒写真では効きが弱かった。そこで画像編集ソフトの「しきい値」機能で写真を白黒2階調に割り、粘土の地の部分と印章が押された部分を切り分ける。それを白黒反転し、最後にベクター画像(拡大しても輪郭が崩れない線画データ)に変換した。できあがったものは、拓本に近い精度の線画になったという。

この線画を見ると、2番目のセレクの枠内には、たしかに鍬の記号が2つ並んでいる。その書き方は、他の資料に残るメルネイトの名前の鍬とよく似ていて、ただ少し斜めに傾いているだけだった。枠の上の印はネイト女神の印で、ホルスのハヤブサには見えない。3番目のセレクも鍬が2つで、こちらは上の印がはっきりしないものの、ハヤブサの脚と腹の線らしきものが読み取れた。著者たちは「女性で最初のホルス名かもしれない」と書きつつ、そこまで言い切るのは控えている。

名前の書き方が揺れていた時代

「鍬が2つなのはおかしい」という反論について、著者たちは第1王朝の他の王の名前を並べて返している。エジプトの文字はこの時代に生まれたばかりで、書き方がまだ定まっていない。ナルメル王の名前は15通りの書き方が確認されているし、ジェル王の名前を表す亜麻の束の記号も、同じ印章の中で向きが左右ばらばらだ。デン王の「手」の記号も、指を描くものと描かないものがある。名前の綴りが揺れるのは王も同じで、それを理由に王であることを疑う人はいない。メルネイトにだけ厳密さを求めるのは筋が通らない、というわけだ。

彼女の名前を書いた資料を見渡すと、ネイト女神の印の描き方も、女性語尾や発音補助の記号の有無も、書く向きもばらばらである。唯一いつも入っているのが鍬の記号で、それがセレクの中に2つ書かれている。同じ墓からは彼女の名前を刻んだ石の器も出ている。他にこのセレクの持ち主として名前が挙がった人物はいない。著者たちは「このセレクが王以外の人物のものだと言い張る余地は、もうほとんどない」と結論している。

では、なぜジェル王のセレクと彼女のセレクが同じ印章に並んでいるのか。ドイツ考古学研究所のギュンター・ドライヤー氏は2021年に、ひとつの物に2人の王の名がセレクとともに並ぶのは共同統治を意味する、という解釈を示している。ナルメルとアハ、セメルケトとカアなど、第1王朝には同じ形の例がある。この見方に立つと、メルネイトはジェル王(おそらく父)の存命中に、王と同じ資格で名前を枠に入れられた。つまり彼女の政治的な経歴は、共同統治者として始まったことになる。

研究者自身が言う「彼女は2人目」

ここまでを読むと、「最初の女性ファラオはメルネイトだった」という話に見える。実際、海外の科学ニュースの見出しはそういう方向に寄っている。ただ、論文の著者であるケリー氏自身は、そう言っていない。

ケリー氏の言い方は、「メルネイトは第1王朝の女性の王であり、王名枠に名前が記された古代エジプトの女性統治者としては2人目だ」というものだ。1人目は、初代王アハの母とされるネイトホテプである。ネイトホテプの名前もネイト女神の印を頂いたセレクで残っていて、ケリー氏は2025年の論文で、彼女こそが最初の女性統治者だと論じている。今回の研究は「最初の女性王」を発見したのではなく、「最初の2人」の2人目について、疑いが残っていた証拠を固めたものだ。

この線引きは、意外と大事だ。「一人だけ特別な女性がいた」のなら、それは例外で片づけられる。けれども王朝の初期に2人続けて、しかも同じ形式(ホルスの代わりにネイトを頂くセレク)で女性の王が記録されているなら、それは例外というより、この時代のエジプトが「必要なときには王家の女性が王の座に就く」という仕組みを持っていたことを示す。著者たちも結論で、王は男性が基本だったとしつつ、決まった状況や国の危機のときには王家の女性が暫定の統治者として選ばれていた形跡がある、と書いている。

立場を変えながら30年

セレクの読み直しに加えて、著者たちはメルネイトの他の証拠を並べ直し、彼女の政治的な経歴を段階に分けて描いている。

まず、ジェル王との共同統治。これがサッカラの封泥だ。次に、息子デンが幼いうちの摂政。これはデン王の墓から出た封泥に、初期の王たちの名前の列の末尾として「王の母メルネイト」と記されていることが根拠になる。この列は正式な王名表ではなく、死者への供養のために先祖を並べたものと考えられているが、彼女ひとりだけ、死者を守る神ケンティアメンティウの名が前に付いていない。つまり列を作らせた時点で彼女は生きていて、自分でこの印章を作らせた、と読める。

さらに、彼女の墓から出た石の器には、名前の横に「宝庫」を表す記号や、役人の肩書きが刻まれている。国庫と役人を自分の権限で動かしていたことを示す。そして時代が下り、デンの2代後のセメルケト王の封泥にも、彼女の名前は残っていた。孫の世代まで、王家の先祖として数えられていたわけだ。放射性炭素年代を使った別の研究によれば、彼女が何らかの形で権力の座にいた期間は、少なくとも30年ほどと見積もられている。

著者たちはこの経歴を、男性の王とは別の型として捉えている。男性の王は「即位し、治め、死に、次の王に葬られる」という一本道だ。メルネイトは、共同統治者になり、いったん表舞台を退き、息子のために摂政として戻り、もしかすると息子の死後にもう一度前に出た。政治の状況に合わせて、王の座に出たり入ったりできた。それは彼女が女性で、王家の中心にいたからこそ可能だった、というのが著者たちの見方だ。

石碑に王名枠がない理由

ひとつだけ、著者たちの側に不利な証拠がある。アビドスにある彼女の墓には、第1王朝の王と同じように石灰岩の石碑が一対立てられていた。1つは壊れて読めないが、残ったほうには名前が彫られている。ところが、そこにセレクがない。「王なら石碑にもセレクを刻んだはずだ。ないのだから摂政止まりだった」というのが、反対派の主張だった。

著者たちはこれを正面から認めたうえで、彼女が共同統治者だったのはジェル王の時代で、その後ジェト、デンと2人の男性の王が立っている、と指摘する。埋葬された時点での彼女の肩書きは「王の母」であり、現役の王ではなかった。だから石碑にセレクがないのは不思議ではない、という説明だ。一方で、墓そのものは他の王と同じ扱いを受けている。上に挙げた一対の石碑、王墓群の中の一角、周りを囲む49基の従者の副葬墓、そして少し離れた場所に建てられた葬祭用の囲い地。2023年に再発掘した別のチームは、数百個のワイン壺がまとめて納められていたことも報告している。規模は少し小ぶりでも、王の墓に必要な要素はそろっている。

結局のところ、この研究が示したのは「新しい遺物」ではなく「読み方の整理」だ。彼女がジェル王と並んでセレクを持っていたこと、後には王の母として国庫と役人を動かしていたこと、死後も2代先まで先祖として数えられ、王と同じ形の墓に葬られたこと。それぞれ以前から知られていた証拠だが、まとめて時間の順に並べると、ひとりの女性が形を変えながら王の座に居続けた姿が見えてくる。写真1枚を読み直すところから始まった話としては、ずいぶん遠くまで届いたと思う。アビドスの墓の再発掘はまだ続いていて、著者たちもその成果を待っている。

出典:
Sue Kelly – Crystal Miller, “New technology illuminating ancient evidence: re-evaluating Meretneith’s serekhs and political position”, Prague Egyptological Studies XXXVI/2026, pp. 28–49(PDF)
The Conversation:著者スー・ケリー氏による解説
ScienceAlert:A Woman May Have Ruled Ancient Egypt as King 5,000 Years Ago

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