2022年、ポーランド北部の村ピェンの外れで、ひとりの若い女性の墓が掘り出されました。首の上には鉄の鎌が、刃をのどに向けて置かれていました。左足の親指には、三角形の鉄の南京錠がかけられていました。
このニュースは「ポーランドで吸血鬼の墓が見つかった」として世界中に広まりました。地元の人たちは彼女を「ゾシャ」と呼ぶようになり、2024年には頭の骨から生前の顔を推定した復顔模型も公開されています。けれども、正式な調査結果はずっと出ていませんでした。
その論文が、2026年7月末に考古学の専門誌 Journal of Archaeological Science: Reports に載りました。トルンにあるニコラウス・コペルニクス大学のダリウシュ・ポリンスキ教授らのチームが、DNA、放射性炭素年代、歯と骨の同位体、金属や布の元素分析を組み合わせて、「グレイブ75(75号墓)」と番号をふられたこの墓を調べ直したものです。
先に言葉のことをひとつ。論文によると、「吸血鬼(ヴァンパイア)」という言葉がヨーロッパで広く使われるようになったのは18世紀ごろで、彼女が葬られた17世紀よりあとです。当時のポーランドで恐れられていたのは、ウピュル(upiór)やストシガ(strzyga)と呼ばれる、死んだあとに戻ってきて生きている人に害をなす死者でした。研究チームも「吸血鬼」を、そうした恐ろしい死者をまとめて呼ぶための便宜的な言葉として使っています。この記事でも、かぎかっこ付きで使います。

地図にない墓地
ピェンは、ヴィスワ川の下流域にある小さな村です。墓地は村から離れた斜面の上、十字路のそばにあり、教会や礼拝堂からも遠い場所にありました。これまでに約920平方メートルを発掘して、17世紀の墓が101基見つかっています。
ところが、この墓地のことはどの記録にも書かれておらず、古い地図にも載っていません。墓からは十字架やメダルといったカトリックの信仰の品がまったく出てこないため、研究チームはプロテスタントの人たちの墓地だったと考えています。当時この一帯には、カトリックのポーランド人に混じって、ドイツ系のルター派や、オランダから移ってきたメノナイトの人たちが暮らしていました。
もうひとつの見方もあります。当時は、清められた教会の墓地に葬られるのがふつうで、そうでない場所に埋められるのは本人にとっても家族にとっても恥とされました。そうした墓地に回されたのは、自ら命を絶った人、異端とされた人、町の市民権を持たないよそ者、放浪者、事故で亡くなった人、出産で亡くなった女性、洗礼を受けていない子どもなどです。記録に残されにくいのも、そのためだと論文は説明しています。
ピェンの墓地では、ふつうとは違う葬られ方をした墓が数十基見つかっています。うつ伏せに葬られた子どもや、石で押さえつけられた遺体もありました。研究チームは、ここが身分に関係なく、社会から締め出され、死んだあとも恐れられた人たちの埋葬地でもあった可能性を指摘しています。75号墓は、その中でもいちばん特徴のはっきりした墓でした。
一度埋めたあとで、開け直された墓
今回の分析で見えてきたのは、彼女に対する「封じ込め」が一度きりではなかったことです。
まず南京錠です。足の骨の並び方から、南京錠は最初に埋葬したときから親指にかけられていたと考えられています。見つかったときは開いた状態でしたが、仕組みが壊れていたためで、もとは閉じていたようです。墓に錠を入れる習わしは、死者と生者の行き来を断つ、悪い出来事の流れを閉じる、といった意味で説明されています。
次に鎌です。墓穴の輪郭ははっきりせず、上のほうの土が混ざり合い、左腕の骨も位置がずれていました。研究チームは、墓がいったん掘り返され、そのときに鎌が首の上に置かれたとみています。骨どうしのつながりは保たれていたので、掘り返したのは遺体がまだ完全には朽ちていない時期、つまり埋葬からそれほどたっていないころだったと考えられます。
鎌の刃渡りは36センチで、刃はのこぎりのようなギザギザになっていました。麦を根元近くで刈るための、ごく普通の農具です。柄の木はカバノキ、ハンノキ、カエデのいずれかとみられ、カバノキには魔よけの力があると信じられていました。死者が起き上がろうとすれば刃がのどを切る、という言い伝えも、民俗の記録に残っています。

上の画像は想像図です。実際の鎌と南京錠の写真は、出典に挙げた論文(誰でも無料で読めます)で見られます。
首に鎌を置いた墓も、錠を入れた墓も、ポーランドではそれぞれ例があります。たとえばドラフスコという場所の墓地では、首に鎌を置かれた遺体が4体見つかっています。ただ、鎌と南京錠が同じ墓からそろって出てきたのは、発表された考古学の記録ではこれが初めてです。ポリンスキ教授はCNNの取材に、二重に手を打ったということは、それだけ恐れが大きかったのだろうと話しています。
さらに、三つ目の措置があった可能性も出てきました。上あごの骨の奥が緑色に変色していて、X線で元素の分布を調べると、のどに近い部分で銅がほかの場所の10倍以上に濃く集まっていたのです。口の奥か鼻から、銅を含む何かが入れられていたとみられます。硬貨を口に入れた例なら他にもありますが、硬貨ならこれほど広く変色しないので、硬貨ではないと論文は判断しています。何だったのかは、まだわかっていません。
絹の帽子と、少ない肉
では、葬られたのはどんな人だったのか。
骨の成長の度合いと親知らずの発達から、亡くなったときの年齢は17〜19歳と推定されました。身長は162〜168センチほどです。放射性炭素年代では、1620〜1674年の範囲に入る確率がいちばん高く、17世紀の半ばに葬られたとみられています。
身分を語っているのは、あごの周りに残っていた布の切れ端です。長さはつなげて40センチほど、幅2センチほどの飾り紐で、絹に金属の糸を織り込んだものでした。電子顕微鏡で調べると、平たい糸は純銀、巻きつけた糸は金めっきをした銀でできていて、銅はほとんど含まれていませんでした。17世紀の「金糸」は銀に金をかぶせたものが多く、銅に金をかぶせたものもありました。庶民向けには麻や木綿、銅、鉄を使った品が出回っていたので、これは明らかに高級品です。位置からみて帽子の縁飾りだったと考えられ、研究チームは、彼女が農民ではなく、貴族かそれに近い裕福な家の出だった可能性が高いとしています。棺に入れられ、枕を敷いて葬られた跡も見つかっています。

ところが、骨に残った食事の記録は、その身分に見合うものではありませんでした。骨のコラーゲンに含まれる窒素の同位体からは、肉などの動物性たんぱく質をどれだけ食べていたかがわかります。彼女の値は、同じ墓地で調べた成人の中でもかなり低いほうで、下から8パーセントほどの位置でした。主な食べ物は麦などの穀物や野菜だったようです。
17世紀のヨーロッパは「小氷期」と呼ばれる寒い時代で、凶作に加えて、戦争や疫病も続いていました。論文は、裕福な家でも栄養が足りないことは珍しくなかったのではないかと書いています。
骨には、けがの跡も、死因になりそうな病気の跡も見つかっていません。死因はわからないままです。
「スウェーデンから来た娘」という物語
2024年に復顔模型が公開されたころ、報道では「DNAや同位体から、彼女は南スカンディナヴィア、たぶんスウェーデンの出身かもしれない」と伝えられていました。17世紀のポーランドはスウェーデンと何度も戦争をしていたので、「敵国から来たよそ者の娘が、村の不幸の原因にされた」という筋書きは、とても分かりやすいものでした。
今回の論文で、その筋書きはかなり揺らいでいます。
DNAの分析で調べたのは、ミトコンドリアDNAです。これは母親からだけ子に受け継がれるので、母の母の母……とたどる一本の血筋しか教えてくれません。彼女のミトコンドリアDNAは「J1c2c1」という型で、ノルウェーの4世紀の墓、フィンランドやスカンディナヴィアの古い遺跡、今のスカンディナヴィアやイギリス、ドイツの人たちから見つかっています。一方、今のスラブ系の人たちにはほとんど見られません。この型の系統樹をたどると、根元の部分はスカンディナヴィアの人たちで占められています。
ここまでなら「北から来た人」に見えます。けれども論文は、スカンディナヴィアとのつながりは「考えられるいくつかの可能性のひとつ」にすぎないと、はっきり書いています。
決め手になったのは歯です。歯のエナメル質は一度できると入れ替わらないので、子どものころに飲んだ水や食べた物の成分が、そのまま閉じ込められています。彼女の第二大臼歯(2歳半〜8歳半ごろにできる奥歯)のストロンチウムと酸素の同位体を、同じ墓地の人たちや周辺の動物の骨と比べると、値はピェン周辺の範囲に収まっていました。彼女は子ども時代を、この土地で過ごしていたのです。
研究チームの結論は、「母方の祖先がよそから移ってきた、二世かそれより後の世代だったかもしれない」というところまでです。そして論文は、もし何世代も前に移ってきた家の子だったなら、周りからは完全に地元の人と見られていた可能性もある、と付け加えています。
つまり、彼女を「よそ者」と呼べるかどうかは分からないのです。本人がよそから移ってきた形跡はなく、村の人たちに「よそ者」と見られていたという証拠もありません。「敵国の娘だったから恐れられた」という話は、DNAの結果が少し出たところで、私たちの側がつい貼り付けてしまった理由だったのかもしれません。
恐れられた理由は、まだわからない
それでは、なぜ彼女は恐れられたのか。論文は、祖先がよそにあることが見る目に影響した可能性は認めつつも、それ以外の理由もたくさん挙げています。若くして亡くなったこと、ふつうではない亡くなり方をしたこと、病気、ふだんの振る舞い。そして、骨や土には残らない、その場の事情です。
民俗学の記録には、結婚しないまま死んだ人は死後にストシガになりやすい、というルーマニアの言い伝えもあり、論文もこれを興味深い例として挙げています。ただ、彼女が結婚していたかどうかは分かっていません。研究チーム自身、こうした解釈はすべて似た例や民俗資料から組み立てた仮説であって、17世紀の人たちが何を考えていたかを確かめたものではない、と念を押しています。
それでも、確かに言えることはあります。論文は最後に、ピェンの墓は、17世紀のポーランド・リトアニア共和国に広がっていた迷信、つまり不幸の原因を死者に負わせようとする心の動きと、得体の知れないものへの恐れをありありと示している、とまとめています。寒さで麦が実らず、戦争が続き、疫病が村を襲う。理由の分からない不幸が続くとき、人々はその原因を、最近亡くなった誰かに求めました。
ポリンスキ教授は2023年、ポーランドの科学メディアの取材に、吸血鬼と疑われた人たちは必ずしも悪い人だったわけではなく、見た目や振る舞い、話し方、病気など、何かが周りと違っていただけだったのではないか、と話していました。
絹の帽子をかぶせ、枕を敷き、棺に納めて葬った若い女性の墓を、誰かがわざわざ掘り返して、首に鎌を置いた。裕福な家の娘であっても、それを止められなかった。75号墓が伝えているのは、彼女が何者だったかより先に、追いつめられた共同体の姿なのだと思います。
骨の病変についての詳しい分析は今も続いていて、死因について新しい手がかりが出てくるかもしれません。調査が終わったあと、彼女の遺骨はビドゴシュチの博物館に移される予定です。
出典
New Atlas:Strange 17th-century Polish ‘vampire’ is no longer a mystery(2026年8月25日)
CNN:New study of a young woman’s ‘vampire’ burial offers clues about her identity(2026年8月21日)


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